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これから着たい服の条件を考える

先週の投稿で書いたように、年々出番が減っていたアイテムを整理したことで、ずいぶんと服の出し入れがしやすくなった。

風通しのよくなったクローゼットを前に、「うん、これが本来の『持つべき量』なのだわ」と満足感をかみしめる。
ポールの上を左右にすいすい滑るハンガーたちも、そこにかけられた服たちも、窮屈さから解放されて、なんだかうれしそう。

残った服たちを眺めながら、さらにもう一段階、整理を進めたくなる。
全体量が減ったことで、より精緻な目で取捨選択できる気がするからだ。

中学受験という暗く長いトンネルを、娘と二人三脚で2年半がんばってきた生活が、あとひと月半でとうとう終わる。それはわたしにとって大げさではなく、ほぼ第二の人生のはじまりといえるくらい大きな節目であって、その後のわたしは、さて何が着たいのか。
いよいよ大詰めとなった入試準備からの逃避もあり、最近ちょくちょくファッションサイトをのぞいては、これから自分が着るべき服について考えている。

服の印象<人の印象

昔から、流行のサイクルとは別の場所で静かに時を重ねてゆくようなベーシックな服が好きで、その点においては大きな変化はない。加えて、今はっきり思っているのは、一目見て「あ、どこそこの服だな」とわかるような服は着たくない、ということ。あと「あの雑誌が好きそう」「あのブランドやショップが好きそう」とカテゴライズされやすいファッションにも、ちょっと抵抗を持ってしまう。

これは、ファッション誌の仕事をしていたころと明らかに変わった部分、というか、意識として真逆と言っていい。なぜなら、当時は、身につけるアイテムは仕事相手とのコミュニケーションツールであり、自分というキャラクターを伝え、理解してもらいやすくするための大事な道具だったから。
たとえば、初めて会う相手と、偶然にも同じブランドのものを今シーズン買ったという共通点が見つかれば、短時間で打ち解けやすいし、お互いに好きなテイストの確認にもなる。ある意味、身に着けるものに自分がとても助けられていたし、その力を借りていたとも思う。

それが、なぜか今は、服にそうした役割を求めていない。
この感覚ってなんだろう。どこかで知っている。というより、聞いたことがある。……しばらく考えて、思い出した。『おしゃれと人生。』で、料理家の有元葉子さんが語っていらして、それを聞いたときはまるで目の覚める思いがしたことを。

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1,489字
暮らし・仕事・おしゃれ・健康を題材としたエッセイ(平均2000字)が28本入っています。

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