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書けないかも、という不安の乗り越え方

noteを始めてもうすぐ3年、毎週更新を続けて2年以上(連続投稿122週)、というこれまでを振り返っても、「書けない」という悩みをもったことは、あまりなかったように思う。

そんな自分がここ最近、「書けないかも」いう不安を抱えながらnoteの投稿画面と対峙することが続いている。

理由の一つには、今年1月からvoicyをスタートし、今のところ平日は毎日配信というペースを守っていることで、思考のアウトプットがそちらに傾きがち、ということがある。

そもそも音声配信を始めたのは、わたしの本や文章の新しい読者になってくれる人との出会いを期待して、ということを考えれば、voicyで毎日しゃべりまくっているせいでnoteのネタが浮かばないなんて、あきらかに本末転倒なのだ。

でも、新しい出会いに浮き足立ち、そちらに興味が引っ張られてしまうのは、人の性ともいえる。

でもでも、わたしはnoteを続けたい。
こんな一時的な、理由も明確で、さして深刻ともいえないスランプなんかで連続更新を止めたくない。
そんな葛藤がずっと体内にうずまいている。

続けることの切実さをエネルギーに

そんなわけで、毎回重たい気分で、まっしろな投稿画面に向き合うことから執筆はスタートする。下書きにしまっている記事のストックはゼロ。
いや正確にいうと、仮タイトルだけ書いて本文はまっしろ、という記事が3本ある。
でも、そのタイトルにつく本文を書き上げられる気がしない。
そもそもどんなエッセイにまとめるつもりでそのタイトルだけ書いておいたのか、思い出せない。
ならばいっそゼロから新規投稿した方がよさそうだ、ということが、かれこれ2か月以上つづいている。
つまり、しぼりだすようにして書いている。

だがしかし、その2時間後、「これは……なかなかいいものが書けたんじゃないか」という手応えとともに、文章で埋まった画面を眺めている、なんてことが起こる日もある。

数週間前に書いた「やってきたことがまとまりだす年齢」などはまさしくその例だった。

このエッセイは、ひさしぶりにnoteの注目記事に選出していただき、いつもより多くの人に読んでもらえる1本となったが、実は、書き上げたときの達成感としても、「これはきっといける」という何かがあった。
noteの注目記事という具体的な結果を想定した「いける」ではなく、「読んでくれた人の心の奥まで届くんじゃないか」という予感があったのだ。

「書けないかもしれない」という不安からの大逆転、というと大げさだけれど、不安を抱えながらも書くこと、とにかく更新を止めないことで得られるものの大きさについて、最近は痛切に感じている。

ゼロからしぼりだされた文章には、苦もなくテーマが降りてきて筆が進む文章には宿らない、そこはかとない「切実さ」があるように思うのだ。

それはもちろん意図してこめられるものではなく、もしそんなことを安易にやろうとしても、読者には演出が透けて見えて、興醒めされてしまうだろう。
だからコントロールなんてできない、あくまで偶然の産物であって、また、しぼりだして書いた文章すべてに宿ってくれるものでもないのだけれど。

けれどもしかしたら、「書けないかもしれない」という不安におしつぶされそうになりながら、それでもなんとかつぶされないで書き上げ、公開ボタンを押す、そこにたどりつくまでにあがいた時間は、文章にどこかしら人間くさい味わいを与えるのかもしれない。
指先がほとんど止まることなくキーボードを打ち続けて書き上がった文章からも、更新を守るためだけに簡単に書いてリリースする文章からも生まれない「切実さ」という味わいを。

「書けないかも」という不安がどんなに大きく感じられる日も、たぶんその苦しみは、更新を休んで悔やむことにくらべたら小さなものだと思うよ。
もう一人の冷静な自分が、そっとささやいて教えてくれる。

うん、そうだよね、とうなずきながら、白い画面に向き合って書きはじめる。そして書き上げる。
その粘り強さは、とにかく続けること、休まないことで、いつのまにか獲得していた力だった。

だから、タイトルにある「『書けないかも』という不安の乗り越え方」として、今この手のなかにある答えは、「それでも続けること」「休まないこと」に尽きる。

シンプルなだけにむずかしく、でも真理なのだろう、きっと。

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