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いつもの駅で降りたはずなのに

 読書に集中していたのは認める。降りるつもりの駅を過ぎていたことは、1度や2度じゃない。
 けれど、乗客どころか乗務員も駅員さえもいなくなっていることに気づかないということはおかしすぎやしないか、自分。
 キリのいいところで文庫本を閉じ、顔を上げたらいつもの駅で扉が開いていたから、あわてて駆け降りた。
 が、扉は閉まらず、違和感に周囲を見ると、人っ子一人いなかった。ホームにも、電車の中にも、人っ子一人いない。
 何があったのだろう。
 駆け足で階段を上って改札まで来たけれど、誰もいない。ICカードをあてて通り過ぎようとしたらゲートが閉まったので、むりやり出た。
地下通路にも人は見えず、地上を目指すことにする。いつも使っている階段に着き、出口を見上げる。
 焦げ臭い、気がする。
 怖いと思った。階段をのぼり地上に出ることが怖いと思った。けれど、このまま地下通路にいても何もわからない。
 意を決して階段を上る。
 階段をのぼりきって見えたのは、ビルにつっこんだ自動車だった。焦げ臭さの原因はこれか。建物に自動車が突っ込んでいるのは一か所ではなかった。あちらこちらにひしゃげた自動車が止まっている。おそるおそる、近くの自動車の運転席をのぞき込んだけれど、無人だ。
 大学へ向かおう。歩いて五分ほどだ。
 道々、建物や街灯や電柱に突っ込んで止まっている自動車をのぞくけれど、どれも無人だった。突っ込まれている建物の中にも人は見えなかった。
いったい、皆はどこへ行ったのだろうか。
 点いていない信号もあるけれど、ほとんどが規則的に点灯していて、通りがかる自動車はいないようだけれど、赤信号ではわたるのをやめた。
 大学に着いた。門に突っ込んでいた自動車とバイクを遠巻きにして、構内に入る。
 ところどころに乗り捨てられたような自転車が転がっているだけで、道にもグラウンドにも、人っ子一人いない。
 のどが渇いてきて、校舎の中にある売店に行った。冷えたミネラルウォーターを取り出し、無人のレジカウンターに小銭を置いて出た。
 本来ならば講義を受けるはずの講義室に来てみたけれど、やはり無人だ。疲労感におそわれて、最後列の端っこの席に座り込んだ。入手したての水を飲む。
 なぜ、誰もいないのか。考えてみようとしても何も浮かばない。
「一人の気分はどう?」
 声が聞こえて、振り返った。そこにいたのは、同じ年くらいの男。同じ講義室にいるのが当然な雰囲気で、つかみどころのない、フワフワした印象を受けた。
「一人になった気分はどう?」
「どうって……」
 男が窓の外に目を向けたので、つられて外を見た。ところどころに黒い煙が見える。
「一人になりたいって思ってたじゃん、君」
 言われて、目を戻すと、もうそこには誰もいなかった。あわてて立ち上がり、講義室を見回し、廊下に出た。けれど、男は見えなかった。
 一人になりたい。
 そうだ、確かにそう思っていた。
 親元を離れて大学に入学するには、大学のある都市で会社員として働いている姉と同居することが、親の出した条件だった。姉は拒むどころか、喜んで受け入れた。だから、こちらも受け入れざるを得なかった。どうしても地元の同級生たちから離れたかったから。
 姉との同居は、はじめはまあまあ快適だった。家事のほとんどはまかされたけれど、家賃が格安で済むのだから文句はなかった。
 だがしかし。
 姉は何かにつけて部屋に顔を出して、ときには入り込んでくる。姉には姉の部屋があるし、食事は共有の部屋でとればいいはずなのに、互いに出かける予定がない日は一つの部屋でこじんまりと二人で過ごしたがるのだ。
さらには、抱きついてくるようになった。おはよう、いってきます、ただいま、おやすみ、挨拶のたびにハグしてくるのだ。さすがに家の外ではしないけれど。
 これでは自分の時間も空間も無きに等しいではないか。
 一人になりたい。そう思うようになった。
 とぼとぼと歩いていたら、いつのまにか校舎の外にいた。やはり人影はなくて、途方に暮れるとはこういうことかと。どこかに人はいるのだろうか。
「あら、あらあら?」
「越境者か……」
 背後から男女の声が聞こえて、そっと振り返った。
 空耳ではなくて、ちゃんといた。不機嫌を隠さない高校生くらいの男と、人懐こい微笑みをうかべた大学生くらいの女。
「あ、あの!」
 声をかけようとして、でも言葉が続かなかった。
「ここではない世界から来てしまったんですね、あなた」
 こちらの続きを待つことなく、女が言った。
「…………は?」
 ここではない世界?
「ここはもう消すから、人間がいない。生き物から先に消したから」
「そういうことは言わなくていいから、ヒイロは黙っていてよ」
 女に言われて、男はさらに不機嫌をあらわにしてそっぽを向いた。
「とにかくね、ここはあなたのいた世界とは異なる世界なの。なにかの間違いで世界の境を越えて来てしまったのね」
 女の言うことも、わからない。異世界?
「元居た世界に帰してあげることはできる。このままここにいたら消えるわよ、あなた」
 消える。
 それは理解できた。
「あ、あの、えっと、ここにいたら死ぬってこと? ですか?」
「そう。消えるの」
 女はうんうんとうなずいた。
 え、ええっ!
 声も出ていたかもしれない。困惑して戸惑って慌てて挙動不審になっていたに違いない。
「し、死にたくない!」
 やっとのことで出た言葉がそれだった。
「じゃあ、帰してあげるから、目を閉じて」
 微笑を浮かべる女に言われるままに、ぐっと目をつぶった。
「いいよ、って言うまで、目を開けないで。危ないから」
 こくこくとうなずく。
 手を握られた感触がある。右はひんやりとした手に握られて、左はやわらかくて暖かい手に握られた。
 左手の感触は、姉に似ている。
 唐突に、思い出した。
 子供のころ、大きな商業施設の中で迷子になってしまった。そのときに、迎えに現れた家族の中でも一番に駆け寄ってきてぎゅっと抱きしめてくれたのが姉だった。ごめんねを繰り返して泣く姉に強く強く抱きしめられて、ようやく安心したのだった。
そうだ、そんなことがあったっけ。
「いいよ」
 そう聞こえたと思ったら、握られていた感触が消えて、目を開けた。
 人がいる! 話し声が、ざわめきが、聞こえる!
 通りにあふれる人、行きかう自動車やバイク。見慣れた景色が目の前に広がっている。帰ってきたのだ。
「よかった……」
 つぶやいて、へたりこみそうになったけど、ふんばって、走り出した。
 姉になんて話そう。人がいなくなった世界に迷い込んでいたなんて、信じてくれるだろうか。
 ああ、そんなことよりも、ありがとうと言おう。
 大好きだよと伝えよう。
 こっちから、思いっきりハグしてやるのだ。

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