ドーナツもらって家出した

 駅の構内にあるコーヒーショップでぼんやりと電車を眺めている。制服のままだけれど、下校途中か予備校へ行く前の時間つぶしに見えていてほしい。
 下校途中なのはそうなのだけれど、自宅の最寄り駅を通過して、市街地に近いこの駅まで来た。時間が遅くなれば補導されるかもしれないな、どうしようか。
「すみません」
 声をかけられて隣を向くと、モデルかアイドルですかってくらいの美形が俺を見ていた。人種だの民族だのを越えて所属不明なミステリアスな美形。目の保養になる。
「突然すみません、甘いものはお好きですか?」
「好き、です、けど……?」
「よければ、これ、もらってもらえませんか。買ったけど、1個で満たされてしまって」
 彼のトレイの皿にはドーナツが一つ。別の皿にはケーキを包んでいたセロファンがたたまれてフォークの下に置かれている。
「もらっていただけるとありがたいので、人助けだと思って。お願いします」
 そこまで言われると断れない。
「いただきます」
 そう言った自分の声がはずんでいて、恥ずかしくなった。ぺこりと頭をさげて皿ごと受け取ったドーナツをさっそく食べる。
「うまっ」
 甘いものは好きなのに、家族の誕生日のケーキ以外はほとんど食べられない。自分の小遣いで買うことも禁止されている。
「よかった。もらってくれてありがとうございます」
「いえ、こちらこそありがとうございます」
「お菓子のお礼に、というと変ですが、帰宅をためらっている理由を教えてくれませんか」
 ドーナツの最後の一かけを入れようと口を開けたまま、止まった。
「切羽詰まった顔をしてるから、気になります。俺がお役に立てるかもしれませんが、それもお話を伺わないとわからないですから」
 最後の一かけを口に放り込み、もぐもぐと咀嚼する。
「どうして、帰りたがってないと思ったんですか」
 ごくんと飲み下した俺はぼそぼそと言った。
「カンです。どこかへ向かう途中にしては時間を気にしてらっしゃらないし、帰宅前の寄り道にしてはなかなか席を立たれない。なので、帰りたくないのかな、と」
 そうか、そんなに不自然だったのか。
「通りすがりの人間に本音をもらしたとて、二度と会わない可能性のほうが高いのですから、ええと、旅の恥はかき捨て、みたいな感じで。さあ、どうぞ、なんでもおっしゃってくださいな」
 そう言うと、彼は口元に笑みを浮かべたまま、窓の外へ目を向けた。
 制服で学校名はばれているだろうけれど、名前を言わなければ身元がばれることはない、ように思えてきた。
「窮屈なんです、家にいるのが」
 ぽつりと言うと、次々に言葉があふれ出した。
「菓子は食べちゃいけない、自分で買うのもいけない。シャツの裾は出してはいけない、着きたい服を自分で買うこともダメ。マンガを持っていたら借り物でも捨てられるし、スマホは家ではリビングだけで部屋に持って入れないし、メールやらwebの履歴は勝手にチェックされるし、SNSはもちろん禁止。おかげで友だちもできなくて学校も楽しくない」
 言い出したら止まらなくなって、まだまだあるけれど無理やりに切った。
「とにかく、自由がないんです。もういやなんです」
「それは窮屈ですね」
 彼はカウンターに肘をついて組んだ手に顎をのせていた。そして、おもむろにこちらを向いて、
「このまま遠くに行きたいなら、連れて行ってあげますよ」
 そう言った。とても簡単なことのように。
「え……?」
「お金はいりませんが、二度と帰らない、という覚悟だけが必要です」
 二度と帰らない覚悟。
「その覚悟があるなら、絶対に見つからないけど言葉は通じるところへ連れていってあげますよ」
 どうする?
 彼の目は俺にそう問うている。
 スマホは電源を切っている。入れたところで鬼のような着信があるだろうし、GPSで居場所を特定されるに違いない。
 見つかった後が怖い。怒られるだけではなく、今まで以上に束縛された窮屈な生活を強いられるに違いない。
「連れていってください」
 引き返せない一歩を俺は踏み出した。
「了解」
 言って彼が立ち上がったので、俺もつられるように立ち上がった。
「じゃあ、手を出して」
 首をかしげながらも、言われるままに、彼の手に自分の手を乗せた。
 とたんに、景色が歪んだ。水に垂らした絵具を筆でまぜたかのような、コーヒーにミルクをいれて混ぜるような。
 と思ったら、すぐに戻……っていない。コーヒーショップではない、外だ。
「ここ、は……」
 繁華街の真ん中にいる、ようだ、けれど。
「君が生まれ育った世界と似ているけれど、違う世界です」
 彼はそう言って、手を離した。
「違う世界……」
 見回すと、たしかに違うのだと理解した。看板にアルファベットがなくて、ひらがなとカタカナと漢字、つまり日本語しかない。
 人にぶつかりそうになったので、彼にうながされるままに路地に少しだけ踏み入った。
「この日本は鎖国しています。画期的発明により、エネルギー資源を輸入せずとも賄えるようになったのです。その技術を守るためにも鎖国に踏み切った、のが半世紀ほど前です」
 彼は表通りを見ながら、そう言った。
「鎖国って、江戸時代にしてた鎖国?」
「そうですね、似ているんじゃないでしょうか。外国籍の人はほとんどいないはずです」
「インターネットで情報は得られるでしょう?」
「接続できれば、ですが」
 呆然とする、とはこんな状態だろうか。
「言葉は通じますし、治安は良好、経済的にも豊かで働き口はすぐに見つかるでしょう」
 絶対に見つからない、に違いない。外国どころか、別世界に来たのだから。
 俺はわくわくしてきた。自由に、やりたいようにできる、ここでなら。禁止を連呼する親はいない。
不安がないわけではないけれど、どうにかなるだろう。
「いけません、帰ってください」
 路地の奥から固く冷たい声が聞こえて、彼の表情が険しくなった。
「世界を渡ることは許されません」
 現れたのは、少年。少女かもしれない。いや、大人かもしれない。そもそも、人間ではなく、人型のロボットかもしれない。
「守護者か……」
 彼がそう言ったように聞こえた。
「反逆者は去りなさい。私が彼を送り届ける」
 命令することに慣れた、他者を見下した物言いだった。
「彼は戻ることを望まない」
「それでも、越境は許されません。戻します」
 戻る?
 あの、不自由で窮屈な家に?
「いやだ!」
 叫んだと同時に走り出した。がむしゃらに走った。
 走って走って息が切れて足がもつれて転んだ。
「逃げられません」
 立ち上がろうとした俺の肩が、強くつかまれた。つかまえられた。
 景色が歪んだ。
 いやだ、そう叫んだ気がする。自分の声すらも聞こえなかった。
 歪みがおさまって、肩をつかまれている感触が消えて、ようやく俺は起き上がった。立ち上がらずに、地べたに座った。
「おかえりなさい」
 降ってきた機械みたいな声に、俺は顔を上げた。
 性別も年齢もわからない、あいつが立って俺を見下している。
「ここ、どこ」
 ヤツの向こうに広がる星空に、俺は目を丸くした。
「あなたが生まれ育った世界に戻ってきました。違う国でもよかったのですが、言葉が通じないのは不便ですし、危険だと思われましたので、同じ国の離れた町へお連れしました」
「ここ、どこ」
 今見えている満天の星、は、ホンモノだろうか。
「九州の南の端のほうです」
「遠い、な」
「そうですか、それは良かったですね」
 ヤツも星空を見上げた。
「越境した世界で暮らす覚悟があるなら、国内の離れた場所でもやっていけるんじゃないですか」
 そう言った声には、ほんわかと温もりがあった。気がした。
「それもそうだな」
 俺は地面にあおむけに寝転んだ。
「幸運をお祈りいたします」
 言って、ヤツは俺の視界から消えた。
 俺はまたわくわくしてきて、笑ってしまった。俺の笑い声は夜空に吸い込まれていくようだった。

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