「見上げれば、クジラ」第7話
帰宅した優子の様子に、朱美さんも一太朗さんも嬉しそうに目を細めていた。
「楽しかったよ、フィナンシェ喜んでもらえたよ、これみなさんでどうぞっていただいたよ、晩ご飯まで部屋で読書するね」
言うだけ言って、優子は自分の部屋に駆け込んだ。
リュックから制服を取り出し、丁寧にしわをのばしながらハンガーラックにかけた。
優子たちがお菓子を食べている間に、優さんママがスチーマーで制服を整えてくれていたのだ。
リュックから荷物を出した後、優子はそっと部屋を出て、パパの部屋に入った。
「ママ、見て、これ、僕だよ、どう? 似合ってる?」
ママの写真に、優さんと厳選した写真を向けた。
優さんと二人、カメラ目線で笑っている、全身が写った写真だ。
「僕は借りた制服だけど、しっくりしたっていうか、着心地よかったよ。男子の制服のほうがいいな、僕。優さんは女子の制服も似合ってるよね。在校生も新しい制服を選べたらいいのにな」
つぶやきながら、自分が今の女子用の制服に不満を感じるのは何故だろうと、優子は疑問に思った。
優さんみたいに似合っていたら感じなかっただろうか?
中学生になるまでほとんど着たことのなかったスカートに慣れていないからだろうか?
お嬢様っぽいデザインではなく、たとえば来年の新入生が着るシンプルなデザインならすんなりと受け入れただろうか?
思い浮かんだもののどれも「はい」とは答えがたい。
「自分のことなのによくわからないよ、ママ」
優子はため息をついて写真をしまい、そっとパパの部屋を出た。
優さんの家を訪問した次の日曜日、優子は図書館にいる。
窓際のソファに座って読んでいるのは、パパが教えてくれたHSPに関する本だ。
パパは先に読み終わっていて、
「優子は大きな音に驚く、というより、怖がるように見えていたんだけどね。優子だけじゃないし、優子はそういう性質なんだと腑に落ちたよ」
そう言っていた。
優子自身、自分だけじゃないという安心を感じている。
同時に、この性質とつきあい続けるしかないという諦めも抱いた。
より気軽に気楽につきあい続けられる方法を考えよう。
優子は自分に向かって、声に出さずにそう言い、読み終えた本を書架に戻した。
次は何を読もうかと考えながら、優子は図書館のロビーに移動した。
建物入り口近くの自動販売機コーナーで温かいカフェオレを買う。ガコンと降りたカフェオレを取ると、背後を通りすぎる人の気配に振り向いた。
あれ?優さんだった?
優子は急いで温かいココアも買った。
図書館側の自動ドア前には、職員がおすすめする本が毎月テーマを変えて並べられているガラスケースがある。
そこに立ち止まり、本を眺めている人物がいる。
「優さん」
前髪をおろし伊達メガネをかけた優さんが、優子の声で振り向いた。そして、ぎこちなく口許を笑みの形にした。
「こんにちは」
休みの日なのに、優さんはシンプルなグレーのセーターに黒いズボンという地味な服装だ。
「こんにちは。図書館で会うのは初めてだね。僕は祖母がここで働いてるからよく来るんだ」
優子は早口で言った。早く言わなきゃとなぜか思ってしまったから。
「そう。とても、久しぶりに来たよ。宿題の調べものをしたくて。でも」
一方の優さんは落ち着いた声音で、いつもよりゆっくりと話した。
「中は空いてるかな? 座りたいんだ、とりあえず」
そう言う優さんの顔色がいつもより白くて、優子はぐっと一歩近づいた。
「座れるけれど、僕は外のベンチに寝転ぶのが好きだよ」
言いながら優さんの手を握り、優子は図書館の外へ出た。
駐輪場へ通じる遊歩道の脇にあるベンチまで、優子は優さんを連れてきた。
ベンチの座面をささっと手で払い、優子は優さんを座らせる。
「優さんにどっちかあげる。ココアとカフェオレ、どっちがいい?」
先ほど買ったペットボトルを見せて尋ねると、優さんはココアを受け取り、
「ありがとう」
と言った。
優さんを座らせたすぐ隣のベンチの座面もささっと手で払って、優子はごろんと仰向けに寝転んだ。
クジラの腹が見える。
隣のベンチで優さんが寝転んだ気配を感じ、優子は安心した。
「空、青いね」
ぼそり、と、優さんが呟いた。すると、クジラはざぱんと尻尾を動かして高度を上げ、優子の視界を広めた。おかげで、優子も広い青空を見ることができる。
「青いね、広いね」
言いながら、クジラが優さんの発言を聴いて移動したように感じられて、優子は驚いている。
クジラが優子以外の声に反応したのを見たのは初めてだ。
「ココア、温かい。ありがとう」
「どういたしまして」
お腹の上で両手で握ったペットボトルは温かく、眠気を誘う。
「今日はHSPについての本を読んだよ。自分にあてはまることがあって、あてはまらないこともあったけど」
独り言のように、優子はつぶやく。優さんにも聞こえているだろうけれど、聴かれていなくてもいいと思う。
「そういう性質なんだと思えば対処法も見つけられる、って、わかった」
「うん」
相槌が聴こえたから、優子は優さんに向けて言う。
「HSPって言葉を教えてくれてありがとう、優さん」
「私が優子さんに……そっか、どういたしまして」
優さんの、元気はなさそうだけれど、落ち着いた声音に、優子はほっとした。
「うん。優さんは物知りだなって思った。だから、僕ももっともっと知りたいって思ってる」
「うん、がんばろうね」
「うん、がんばりすぎない程度に、がんばろうね」
「うん」
じわりと熱くなった目を、優子はそっと手でぬぐう。
「今日は、母方の祖父母が家に来てて」
ふいに優さんが話しだした。
「そうなんだ」
「うん。母方の祖父母は、とくに、祖父は、男尊女卑な考え方の人、で、だから、服装や話し方も学校モードにしないと、で」
「そっか」
優子は相槌をうちながら、今日の優さんの服装の理由を理解した。
「今まではそれでも平気、だったんだけど、今日、は、つらくて、宿題するふりして出てきたんだ」
「そうだったんだ」
「うん」
優さんの声が震えているように聴こえて、優子はペットボトルを握る手に、ぎゅっと力をこめた。
「がんばって図書館に来てくれてありがとう。今日、優さんと会えてよかった」
声に力をこめず、優さんの耳に柔らかく届くようにと、願いながら、優子はそう言った。
「……図書館にいてくれて、ありがとう、助かった、よ」
優さんの声に涙がまざり、おさえた泣き声が優子の耳に届いた。
優子は体を起こして、ベンチに座りなおした。
デニムのポケットからハンカチを取り出し、優さんを直視しないように気をつけながら、優さんの額のあたりにそっと置いた。
そのハンカチで目を覆って泣く優さんを見るでもなく、優子はただ黙って隣のベンチに座っている。
優さんが思いきり泣いて泣いて、気がすむまで泣いてくれたらいい。
優子はそっと空を見上げた。
誰もここに近づけないでください。
クジラにそう願った。
優子のカフェオレがペットボトルの半分くらいに減ったころ、優さんが起き上がってベンチに座りなおした。
「ハンカチ、ありがとう。洗ってから返すね」
「そのまま返してくれていいよ?」
「いえ、洗濯してから返します」
言葉づかいは丁寧だけれど、優さんは笑って言った。
だから、優子も笑った。
「はい。お待ちしてます」
二人、顔を見合わせて笑った。
「ココアもいただきます」
「どうぞどうぞ。冷めちゃったかな」
「でも、大丈夫、いただきます」
優さんはペットボトルのココアをぐびぐびと飲んだ。
「あーおいしい! いっぱい泣いたら喉渇くし、目が腫れちゃうけど、気持ちがスッキリするね」
「うん。スッキリする」
どれだけ泣いても問題が解決するわけじゃないけど。
それでも。
泣く前に感じていた辛さが軽くなって、問題について考える気力が湧く。
そんな気がするのだ。
「空の色もさっきと違う気が……」
言いながら空を見上げた優さんが、フリーズした。
「ゆ、優さん? どうしたの?」
優子はあわてて立ち上がり、一歩踏み出した。
「優子さん、クジラさんが、見える」
空を見上げたままの優さんがそう言うから、優子も空を見上げた。
いつもより高いところにいたクジラが、螺旋を描きながらゆっくりと降りてくる。
「降りてきてる?」
そう、優子が問えば、
「うん。螺旋階段を降りてるみたいに、ゆっくり降りてきてる」
そう、優さんが答えた。
「優さんにもクジラが見えてる……」
「優子さんのクジラさんが、私にも見えてる!」
優さんも立ち上がった。
二人向き合うように立ち、そろって空を、クジラを見上げる。
大きな腹で視界が埋められるほど近くまで降りてきたクジラは、さらに、二人の目線の高さにまで降りてきた。
腹が地面につきそうなほど低く、優子たちに左側を見せるその身体に、手を伸ばせば触れることができそうだ。
クジラの左目に映る優子と優さんが見えるほど、だ。
「どう、して?」
優子は思わず問いかけた。
クジラが答えるわけないと知りながらも、問わずにおれなかった。
優さんの右手が優子の左手を握る。
ひんやりとした優さんの手から勇気を注いでもらっている、優子はそう感じた。
優子はゆっくりと右手をのばし、そっと、クジラに触れた。
大きくなったね、優子。
これからは、姿を見せることはなくなるけれど、
これからも、ずっと、優子たちを見守り続けるからね。
見えなくなっても、そばにいるからね、優子。
鼓膜にではなく、脳に、心に、魂に、直接届いた。
「ママ」
優子の口から、その二文字がこぼれた。
とたん、クジラは上を向いた。
優子の手がクジラから離れる。
クジラは体ごと上を向いて、尾を体をうねらせ、勢いよく上昇していく。
空を泳いでのぼり、空に吸い込まれるように、クジラは見えなくなった。
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