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非常階段でのできごと


 ここは天国だろうか、地獄だろうか。
 今座っているのは公園によくある木製のベンチで、見える景色も公園だ。
 整備された道を行くのも、広場を走り回るのも、普通の人に見える。天使でも悪魔でも鬼でもなさそうだ。
 ここは死者の世界、だろう。見た目ではわからないけれど。
 だって、私は死んだはずだから。


 あいつが暮らしているマンションの非常階段の手すりに手をかけ足をかけた。
 下を見るのは怖かったから目をぎゅっと閉じた。
 そして、飛んだのだ、私は。


 それにしても、死者の世界とはこれほど普通なのか。
 死に装束の人なんていない。ゾンビみたいな顔色の人なんていない。子供たちはきゃいきゃいと楽しそうに走り回っているし、水筒に口をつけている人も、スナック菓子をつまんでいる人もいる。
 楽しい休日の一幕、にしか見えない。
 いや、待てよ。死者が飲み食いするか?
 自分の恰好を改めて見た。飛び降りる前と変わらない。破れや汚れは見えない、派手な出血の跡もない。
 床に置いてきたはずのバッグが隣に置かれている。バッグを開けて中身を確認すると、何一つ消えていないし、物の位置が大きく変わったということもない。
 スマホを取り出して日時を確認すると、飛び降りたはずの時間からそう経ってはいないようだ。
 あれ、圏外になってる。死者の世界、なのだろうか、やはり。
 私は立ち上がり、ここがどこなのかを知る手がかりを見つけるべく、歩き出した。


 ここが死者の世界なら、新入りを案内する人がいてもよさそうだけれど。死神みたいなの、いないのかな。
 通りすがりの人に、ここはどこですか、って質問するなんてことはできない。それが一番早そうだけれど、知らない人に話しかけるなんて無理。怖い。
 フリーワイファイを探して公園を出た。インターネットで検索したらわかるかもしれない。運よく、すぐに有名チェーンのコーヒーショップを見つけた。
 店内に入り、席を探すふりして、ワイファイ接続できていることを確認する。それから、レジに並んだ。いつものカフェラテのノンファットミルクを注文するとすんなり通じたし、財布にあった小銭で支払いできた。
 さっそくブラウザを起動してインターネット検索する。
「ここはどこ」
 まさかそんなワードで検索する事態が来るとは思わなかったけれども。
 表示された答えは、飛び降りたマンションがある、あいつが暮らしている町の名前。
 ありえない。ぶんぶんと頭を振ってみたところで何も変わらないけれど、振ってしまった。
 どういうことだろう、死者の世界でも地名は同じ、なのだろうか。
 SNSアプリを起動したら、ログインを求められた。IDとパスワードを入力したけれど、ログインに失敗する。他のSNSもゲームアプリもログインができない。
 どういうこと。なぜ。わからない。
 カシャってシャッター音がして、横を見た。制服を着た女の子がケーキの写真を撮っていた。
 彼女が着ているのは、私が行きたかった高校の制服だ。どこまで同じなんだよ、死者の世界って。これじゃ生きていたときと変わらないじゃないか。
 思わず、店内を見回した。あいつが、あいつらがいるんじゃないか。見える限りにはいないけれど、もう無理だ、落ち着かない。
 カフェラテの残りを飲み干して、私は店を出た。あてもなく歩き出す。
 私は本当に死んだのだろうか、ここは死者の世界なんだろうか。どうすればはっきりするのだろう。
 見たことのある建物に、私は立ち止まった。私が飛び降りたはずの、あいつが暮らすマンションだ。
 もう一度、飛び降りればいいじゃない。
 このマンションは古いからオートロックじゃないし、非常階段は二階以上からなら誰でも入れることは承知している。私はマンションに入って、エレベーターで最上階を目指した。
 エレベーターを降りて、廊下を突っ切って外付けの非常階段に出る。見える景色は数時間前に見た景色と変わらない。
 カバンを床におろそうとしたとき、だった。
「なんで死ぬの? せっかく助けたのに」
 背後から聞こえて、驚いて勢いよく振り返った。いつの間にいたのだろう、同じ年くらいの、ヤンチャそうな、絶対かかわりたくないタイプの男が、私を見ている。
「あっちの世界では生きづらいんだと思ったから、この世界に連れて来てみたんだけど」
 私に向けて言ってるのだろうけれど、意味がわからない。連れて来てみたってどういうことだろう。初めて見る人なのだけれど、私を知っているのか。
 こわい。
 私は階段を駆け下りた。変な奴とは関わりたくない。
「君は死んでないよ、この世界で生きればいいんだよ」
 下の階の踊り場に、奴がいた。にたにた笑いながらそう言った。
 なんで先回りできるの。しかも、私は死んでないって。
 私はいま降りてきた階段を、今度は上った。怖すぎる。
「ここは君のいた世界じゃないよ、ちょっとずれた世界。だから、君を知ってる人はいないから、君をいじめる人もいないよ」
 上ったら、また、奴がいた。
 ちょっとずれた世界って、死者の世界じゃないってこと? 私は死んでない?
「家族もいないけどね」
 今度は下のほうから女の声がして、振り返った。
 大学生くらいの小柄な女の人。と。私と同じ年くらいの、整った顔に不機嫌さをあらわにしている男。
「ちっ」
 舌打ちが聞こえて、ヤンチャそうな男のほうを見ると、そいつは私を通り越して、新たに登場した男女をにらみつけている。
 逃げられるかも。思ったときには私は走り出していて、奴の横を走り抜けた。
 あ、って声が三人分聞こえた気がする。
「待てっ」
 待てと言われて待つわけない。声は初耳なので、たぶん不機嫌な男が追いかけて来てる。私はエレベーター横の階段に駆け込んだ。駆け下りる私を追いかけてくる足音は意外と近くて、私は悲鳴の代わりにこう怒鳴りつけた。
「なんで追ってくるの?」
 ちょっと間があって、答えが聞こえた。
「ミユが、あんたを死なせないって、決めたから」
「何それ、誰それ」
 ミユって何よ。こいつも意味不明すぎる、こわい。
「とにかく! もといた世界にもどれ!」
「いやだ!」
 反射的にそう叫んでた。ここがずれた世界だろうと死者の世界だろうと、今までの生活に戻るなんていやだ。
「ここにいても、身分を証明できないし、家族もいないし、生活していくのはすっごく難しいんだぞ」
「死ぬからいい!」
「だから、死なせないって、ミユが」
 今が何階かわからないけれど、階段から廊下に出て、廊下を突っ切って外の非常階段に向かう。
「死ぬんだから!」
 手すりをつかんで、一気に外へ飛び出した。
 つもりだったのに、私は落ちなかった。腕と腰をつかまれて、床におろされた。
 立ち上がろうとしても肩を捕まえられていて、立ち上がれない。もう逃げられない。
「あんたに死んでほしくなってミユが言ってるんだから、もうちょっと生きてみろよ」
 不機嫌な男の整った顔が間近にあって、私は目を合わせないように顔をそむける。
「無理よ、もう無理、死ぬしかないんだから」
「死ぬって決めたのがあんたでも、死なせないって決めたのはミユだから、ミユは絶対なんだよ!」
 男の声が強くなって、私は震えた。おびえているのが伝わるのがいやで、声を張り上げた。
「無茶苦茶なこと言ってんじゃないわよ!」
「あんたの絶対ってなに?」
 そう言った男の声は妙にやさしい感じに聞こえて、私は言葉に詰まってしまった。
 私の絶対?
「俺は、ミユが絶対で、俺がその次。それは譲らない。あんたは?」
 また、ミユ。さっきの女のことだろうか。
「そんなの、ないわよ」
 譲れないものなんて、知らない。
「じゃあ、探せよ」
「簡単に言わないで」
「必ず見つかる」
「必ず、なんて、簡単に使うもんじゃない」
「必ずなんだよ!」
 ぐいっと肩を握る手に力がさらに込められて、痛くて私は男の顔を見てしまった。
 男は私をまっすぐに見つめていて、この男は今は私のことを真剣に考えているのだと、そう思ってしまった。
「創造主なんてバカなんだから、誰かを特別に不幸にしようとか、考えないんだよ。誰もかれも平等なんだよ。そういうもんなんだよ」
「創造主って……」
 神様とか宗教の話だろうか、でも、創造主をバカ呼ばわりしてたよね?
「何を口走ってるの」
 振り向くと、女が階段を上ってきていた。上りきって、床に座り込んでいる私のそばまで来て、しゃがんだ。入れ替わりに不機嫌男が立ち上がってすこし離れた。
黒い瞳が私を見ていて、彼女の見ている私が見えた。
「突然、意味がわからない話ばっかりされて混乱してると思う。ごめんね、でも、だいじょうぶだからね」
 だいじょうぶ。言われた私はこくりとうなずいていた。
「とにかくね、私はあなたがするはずのない苦労をこの世界でするくらいなら、元居た世界に戻ってほしいの。そっちでもつらいんだろうけど、見つけちゃったんだもの、あなたを、私が」
 私は見つけられたのか。
 彼女は私をじっと見つめて、彼女の瞳に映る私も私を見つめている。強い瞳だなと感じて、そこに映っている私も強いのだろうか。
「私はあなたのそばにはいられないけど、あなたの幸せをずっと願うわ」
「幸せ……?」
 そんな感覚はわからない。でも、たぶん、知っている。そんな気がしてきた。
「あなたは幸せになる。私の願いは必ず叶うの。あなたの願いも必ず叶うわ」
 強く言い切った彼女の微笑は美しい。きっとこの人は揺らがない強さを持っている。不機嫌男が言っていた絶対というのがわかる気がする。
「……楽になりたい」
 ぽつりと私はこぼしていた。
「楽になれるよ。楽に生きていけるよ。絶対」
「なれる?」
 私の声は震えている。視界も揺らいでる、目が熱い。
「もちろん!」
 力強くうなずいた彼女が差し出した手に、私は自分の手をおそるおそる重ねた。


 夢みたいだったと思ったけれど、現実なのだと私は知っている。
 頬を伝った涙の熱が、重ねた手のやわらかな熱が、まざまざと残っている。
 ついさっきまでそこの非常階段にいたはずのマンションを見上げて、私は言った。
「生きてやる」
 その声は小さくて震えていたけれど。

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