「見上げれば、クジラ」第3話
ノックの音に気づいたとき、部屋の中は薄暗くなっていて、優子は本を閉じた。
「優子ちゃん、入るよ」
そっとドアが開いて、朱美さんが顔をのぞかせた。優子と目が合うと、朱美さんは壁際のスイッチを触って照明を点けた。
「起きてたのね。ご飯、食べられる? おかずは、鶏団子と白菜の煮物を作ったよ」
「食べる」
まぶしさに目を細めて、優子はベッドから立ち上がった。
「念のために雑炊も用意したのだけど、ご飯のほうがいい?」
「雑炊、食べる」
「じゃあ、降りましょうね」
「うん」
廊下に出る前に、優子は朱美さんの腕にそっと触れた。
「一太朗さんに冷たくしちゃった」
朱美さんが振り向く気配に優子はうつむいて、ぼそりとこぼした。
「いいんじゃない。嫌なことをされたのなら態度で示してもかまわないと思うよ。家族なんだから」
冷たくしてもいいのか。優子は驚いて朱美さんを見上げた。
朱美さんは優子と目が合うと柔らかな笑みを浮かべて、優子の肩に手を置いた。
「でも、一太朗さんは鈍い人だから何が気に障ったのか気づかないことが多いのよね。だから、優子ちゃんから説明してあげてほしいの、気が向いたらでいいから」
「うん……」
優子は再びうつむいた。心がぎゅっとかたくなった気がして。
「言わないと伝わらないことを言わないままでいると、この家にいるのがつらくなってしまうかもしれない。そうなったら、寂しすぎるじゃない。ちゃんと伝えられないかもって思うかもしれないけど」
「うん……」
肩に置かれた朱美さんの手の温もりを感じながら、それでも冷たくかたまっている自分の心も感じる。
「気が向いたらでいいのよ。さ、ご飯食べて元気になりましょ」
「はい」
先に降りていく朱美さんの背中に、声には出さずに、ごめんね、と優子は気持ちを投げかけた。
言わなければ伝わらないと、優子もわかっているけれど。
「男でも、とか、今どきの子、とか、偏見だと思ってイヤな気持ちになった」
晩ご飯の後、優子は一太朗さんに言った。緊張しながらでも、言い方がきつくならないようにゆっくりと、伝えた。
「ごめんな。偏見は、よくないよな、ごめんなさい」
晩ご飯の前から、一太朗さんはしゅんとしていた。あまりにもしょんぼりしているので、パパが一太朗さんと晩酌を始めた。
パパはお酒に強いけれど、一太朗さんはお酒が好きだが強くない。優子がお風呂から出てくると、すでに一太朗さんは寝室に運ばれた後だった。
「ちゃんと伝えて、優子ちゃんはがんばったね。ありがとう」
と言って、朱美さんはホットミルクをテーブルに置いた。
「明日は一太朗さんも優子ちゃんも、ご機嫌さんになれるよ」
キッチンで晩酌の片付けをしていたパパが優子の隣に座って、そう言った。
「うん。ありがとう」
謝った一太朗さん、褒めてくれた朱美さん、一太朗さんへ優しくフォローしたパパ。優子はみんなのおかげでほんわかあったまった自分に気づいていた。
ご機嫌さんに、もうなってる。優子はそう思いながら、ホットミルクをゆっくりと飲んだ。
優子は一応、文芸部員である。
小説家志望のクラスメート、柏木さんに誘われて、読書好きだからと入部した。けれど、柏木さんも夏休み明けから、優子と会話することはなくなった。
読書は好きだが、自分で書くことは楽しくないこともあり、優子は文芸部の活動に参加しなくなった。
文化祭では文芸部員は同人誌の販売と、詩などを張り出して発表していたらしい。他の幽霊部員も部活動への参加を求められることなく放置されているので、優子は文芸部の発表内容をプログラムで知った。
そんな優子に、れっきとした文芸部員の柏木さんが声をかけてきた。
「何を読んでいるの?」
優さんに借りた二冊目がもう数ページで読み終わるからと、優子は放課後に教室に残って読み終え、本を閉じたところだった。
教室内に他に人がいないことを確かめてから、優子はしどろもどろになりながら、作者名と書名を答えた。
「その作家さん、あたしも大好きなんだ」
「貸してもらって、初めて読んでる、この作家さん」
柏木さんは、優子の隣にある自分の席まで来て、椅子をひいたが座らない。
「そうなんだね。この作家さんは、このシリーズみたいなファンタジーぽいのも書くし、ファンタジー要素のない小説も書いてて、すごいんだよ」
「へ、へえ」
どうして柏木さんは普通に話しかけてくるのだろう。夏休みの前みたいに。
優子は頭の中が、なぜ、でいっぱいだ。
その時、廊下から声が聞こえた。
「柏木さん、探し物は見つかった?」
声の主は橘さんで、そのとりまきがいつものように橘さんの後ろにいて、廊下からこちらを眺めている。
「あ、待って」
柏木さんは慌てて机の中をあさり、小ぶりのポーチを取り出した。そして、橘さんたちに駆け寄った。
「見つかったよ。待たせてごめんね」
「大丈夫、まだ間に合うから」
橘さんたちはもちろん、柏木さんも優子を振り返ることなく去っていく。
「え、マジー? きも!」
「ギャハハハハハハ!」
優子は目を閉じ、両手で耳を塞ぎ、とりまきたちの声が聞こえなくなるのを待つ。
待って、そろそろと耳から手を離して、そろそろと目を開けた。
「大丈夫? 具合、悪い?」
二つ前の机の横に、優さんがいる。
優子はびっくりして、なぜだか勢いよく立ちあがった。その時に椅子がガタンととても大きな音を立てたから、さらにびっくりしてしまった。
びっくりした優子に、優さんのほうが驚いたようすで机一つ分、近づいた。
「だ、大丈夫?」
「だ、大丈夫、ごめん、びっくりした」
「驚かせてごめん」
「驚いてごめん」
そう言ったら、優さんがぷっと吹き出して、伊達メガネの向こうが笑顔になった。
「驚いたからって謝らなくていいじゃん」
「そ、そうだね、ご……いや、ありがと」
言いながら、優子も笑ってしまった。
笑いだしたら止まらなくなって、優子と優さんはお腹をかかえて笑った。
優さんが駅前の書店に行くと言うので、優子はついていくことにした。
学校から駅前の書店までは歩いて十分かからない。
「ぶりかえして、具合が悪いのかと思ったんだけど、そうじゃなかったんだね」
たまたま、廊下から優子のクラスを覗いたら、優子が一人でいたから声をかけたのだと、優さんは説明した。
「うん、元気」
優子はそんな優さんの心遣いが嬉しい。心がぽかぽかしてきた。
と、優子はクジラをチラッと見た。目だけを上に向けたから、クジラの顎あたりが見えただけだが。
「大きな声とか大きな音が苦手、で、遠ざかるのを、待ってた、だけ」
だけ、だ。そういうことだ。優子はそう、自分に言い聞かせる。
「ああ、廊下中に響いていたもんね、悲鳴みたいな笑い声」
「優さんは、平気?」
「びっくりはするし、うるさいなって思うことあるけど、それだけ。苦手とか怖いと感じることは、ない、かな」
「そっか」
「でも、そう言う、音とか光とかに敏感な性質の人は少なくないらしいよ。感覚過敏っていって、配慮が必要な人が、親戚にいるんだ。そこまででなくても、HSPって言う気質もあるんだって」
「えいちえすぴー? かんかくかびん?」
「うん。叔父が精神科医で、病気以外でも、心に関わることには詳しいから色々教えてもらったんだ」
「へえ……優さんは物知りだね」
優さんも叔父さんに相談したの?
とは、訊けなかった。優さん自身が困っていた、あるいは、困っているから、叔父さんに教えてもらったのではないかと思ったけれど。
「興味あることだから」
そう言った優さんは困っているような、乾いた笑い方をした。
ふ、と。
優子は前に進めなくなった。大きな道路までもう少しの、交差点の手前で。
「優さん!」
立ち止まった優子に気づかず先に進んだ優さんに、優子が大声で呼びかける。
その声に驚いて立ち止まり振り向いた優さんの、その少し向こうの角から、勢いよく自転車が飛び出した。自転車はスピードを落とすことなく直進し、駆け抜けていった。
優さんはその自転車を見送り、立ちすくんでいる優子を振り向いた。
「自転車が来てるってわかった? 全然気がつかなかったんだけど」
目をぱちぱちさせながら、優さんは優子にそう言った。
咄嗟に言う言葉が見つからず、優子は空を見上げた。
そこには、やはり、クジラが浮かんでいる。
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