見出し画像

マン・レイ (Man Ray.Opere 1912-1975):ジェノヴァのドゥカーレ宮にて開催、20世紀の奇才の作品を辿る特別展

2023年の春から初夏にかけて、ジェノヴァのドゥカーレ宮(Palazzo Ducale)にてマン・レイにフォーカスした特別展「Man Ray. Opere 1912 - 1975 」が開催された。

1890年にフィラデルフィアで生まれ、1976年にパリで亡くなったマン・レイ(Emmanuel Radnitzky, aka Man Ray)は、非常に独創的な写真家、画家、彫刻家、前衛映画監督、グラフィックデザイナーとして様々な肩書きのもと活躍した。

マン・レイは、新しい美学のあくなき探求のために、「私の想像力によって新しい方向が示されるたびに熱意は掻き立てられ、矛盾を感じつつ、未知への冒険を計画した」( enthusiasm over every new direction taken by my imagination as, drawing on a sense of contradiction, I planned new ventures into the unknown)とコメントしている。

このマン・レイ自身のコメントからヒントを得た本展は、このアーティストの独創性や革新性、そして前衛映画の発展への貢献に焦点を当てつつ、その作品を年代順に辿るものである。

簡単にマン・レイの生涯と活動を紹介することにしよう。

1890年にアメリカのフィラデルフィアにて、ロシア系ユダヤ人の移民の家庭に生まれたマン・レイ。

もっともマン・レイという名前は、彼自身が後に自分で付けた名前であり、元々はエマニュエル・ラドニツキーという名前であった。

両親はそれぞれ仕立て屋とお針子というラドニツキー一家は、1897年にニューヨークのブルックリンへ移住した。

「想像の喜び」を探る旅に出たマン・レイは、1921年にパリに移住した。

特にマルセル・デュシャンとの交流は、マン・レイのキャリアにとって重要なものであった。

1921年7月にパリに到着したマン・レイは、デュシャンと運命的な出会いを果たし、ダダイスト・コミュニティから歓迎され、キキ・ド・モンパルナス(Kiki De Montparnasse)やリー・ミラー(Lee Miller)といったミューズとも交流した。

パリのアヴァンギャルドの実践に個人的に関わりたいという願望を抱いていたマン・レイは、写真に専念することを決意し、自分のスタジオを構え、メレト・オッペンハイム(Meret Oppenheim)、ヌーシュ・エリュアール(Nush Eluard)、さらにはエリック・サティ(Erik Satie)といった当時の天才たちと人間関係を築き、ファッションや芸術の枠の超えて依頼を受け活躍した。

ところがヨーロッパの政治情勢に暗雲が立ち込めるようになると、1940年、マン・レイは、ナチス占領下のパリを離れ、アメリカに戻った。

マン・レイはアメリカで、写真ではなく絵画やオブジェの制作に専念したが、思うように成果も得られず、またアメリカでの芸術運動にも馴染むことができず、1951年にパリに戻り、亡くなるまで製作を続けた。

前置きが長くなったが、ロサンゼルス、パリ、亡命、ユダヤ、写真など、マン・レイを知るためのキーワードが浮かび上がってきた。

次の章からは早速マン・レイの作品を見ていくことにしよう。







1. セルフポートレイト(SELF-PORTRAIT)



想像力の領域としての芸術
というマン・レイの概念を体現する本展は、1920年代から亡くなるまでに写真と彫刻で制作された一連の作品で幕を開ける。

ここでは、「By itself I」「By itself II」(ともに1918年)や「Self-Portrait with Half Beard」(1943-1976年)といったマン・レイの作品の他、マン・レイへのオマージュとして、アンディ・ウォーホルやジュリオ・パオリーニなど、他のアーティストが制作した肖像画も展示されている。

本展の始まりとなるこのブースは、研究の対象としての身体、自立的な表現手段としての写真、写真から絵画へ、ドローイングから出版へ、映画から彫刻へなどなど、あらゆるジャンルのものやテーマを使って芸術を発展させようとするマン・レイの姿勢を体現しているのである。



2.ニューヨーク(NEW YORK)

1897年、7歳のマン・レイは、家族とともにアメリカの大都市ブルックリンに移住した。

マン・レイは、ブルックリンの男子校で製図や機械工学、デッサンなどを学び、自伝の中では、この頃にデッサンと絵画に対する情熱が生まれたと語っている。


この頃から才能の片鱗を見せていたマン・レイは、建築学部の奨学金を獲得したが、学業を放棄し、一連の奇妙な仕事(ジャーナリスト、彫刻家見習い、グラフィック・アーティスト)を引き受けた。

またマン・レイは、1908年には美術学校が主催するドローイング・コースに通ったり、1911年から1912年にかけて、アルフレッド・スティグリッツのギャラリー291に赴いたりするなど、積極的に芸術的知識や技術を吸収していった。

また1912年のデッサン「ヌード」などに見られるように、肖像画やヌードに対する関心は、すでにこの頃には生まれていた。

1913年になるとマン・レイは、ニュージャージー州のリッジフィールドにある芸術家たちのコミュニティに移り住み、アーモリー・ショーの現代美術展に影響を受け、キュビスム的要素の入った作品を制作するようになる。


3.マルセル・デュシャン(MARCEL DUCHAMP)

フランス出身の芸術家マルセル・デュシャン(Marcel Duchamp;1887-1968)は、マン・レイの師であり、生涯の友人であり、インスピレーションの源であり、芸術的共犯者であった。

このセクションでは、マン・レイとマルセル・デュシャンとの深い関係が当てられている。

マルセル・デュシャンからチェスを教わったマン・レイは、やがてチェスを偏愛するようになり、自ら『チェス・セット』(1920-1963年)を製作することで、オブジェが変容していく様を探求した。

またローゼ・セラヴィ(Rose Sélevy)という架空の女性を演じたデュシャンを描いた『ベル・ハレーヌ』(Belle Haleine)は、ダダ・アーティストのアイデンティティの考察を語るものである。


デュシャンとの交流によって、マン・レイは、生来持っていた矛盾と汚染に対する疑問や熱意を高めていき、写真をより自立的に自己を表現する手段として使うようになった。



・参考:「マン・レイがデザインしたチェスセット。」『Casa BRUTUS』(2014年9月30日付記事)



4.パリ、エクソダスとアイコン(PARIS: EXODUS AND ICONS)

1920年代のパリは、芸術家のアトリエのみならず、キャバレーやカフェなど、芸術家、作家、音楽家、詩人、知識人たちが交流する場所も多く集まる、発展途上のアートシーンの中心地だった。

画商のガートルード・スタイン(Gertrude Stein)やファッションデザイナーのポール・ポワレ(Paul Poiret)など様々なクライアントからフォトグラファーとして依頼を受けたマン・レイの作品からは、当時の時代の流れを読み取ることができる。

この時期の傑作『アングルのバイオリン』(Le Violon d'Ingres; 1924)を、新古典主義の画家ドミニク・アングル(Jean Auguste Dominique Ingres;1780-1867)へのオマージュとして製作したマン・レイ自身、実はヴァイオリンの名手であった。

( Man Ray, Le Violon d'Ingres, 1924, Stampa alla gelatina d'argento, Gelatin-silver print, La Biennale di Venezia, ASAC (Archivio Storico delle Arti Contemporanee)

美しいなだらかな背中を見せているのは、マン・レイの主要なミューズの一人であり、芸術家でもあったキキ・ド・モンパルナス( Kiki de Montparnasse)である。

彼女は、マン・レイの情熱や官能の体現者であると同時に、創造性の原動力であった。



このブースでは、第一に、マン・レイにとっての人物の個性を描写するポートレート写真の重要性を、第二に、彼による被写体の選択とその撮影方法の背景にある文化的インスピレーションとが強調されている。


ここではキキの他にも、リー・ミラー(Lee Miller)、メレ・オッペンハイム(Meret Oppenheim)、ヌッシュ・エルアール(Nush Eluard)、ドラ・マール(Dora Maar)など、マン・レイの創作の源となった女性を写した写真が展示されていた。


またこの時期のマン・レイは、マルセル・デュシャンの「レディ・メイド」に倣って、既製品に手を加えて作品を作ることも試みた。

例えば、平らなアイロンに釘を一列に接着した「カドー」(Cadeau; 1921年)や、メトロノームの振り子に取り付けられた目の写真「パーペチュアル・モチーフ」(Perpetual Motif; 1923-1970年)といった作品は、彼なりの皮肉を表したものでもあった。

特にこのメトロノームの作品は、何度も作り直され、改名された。

例えば、1932年に恋人のリー・ミラー( Lee Miller)がニューヨークに戻るためにマン・レイと別れた時は、この目の写真は、元恋人のリー自身の目の写真に入れ替えられ、「破壊の対象」( Object of Destruction)と改名された。

その後、1940年にドイツ軍のパリ侵攻時に紛失したこの作品は、「失われたオブジェ」(Lost Object;1945年)として作り直された。

ところがマン・レイの「破壊の対象」という言葉を鵜呑みにした学生たちは、1957年にパリで開催されたダダ展に展示されていたこの作品を破壊してしまった。

この破壊に衝撃を受けたマン・レイは、その10年後、スイス人アーティスト、ダニエル・スポエリ( Daniel Spoerri)との共同制作で「不滅のオブジェ」(Indestructible Object)という名で100点からなる作品集を発表した。

それはこのアイディアの不滅と100点全ての作品を破壊することの難しさを訴えたものである。


参考:
「マン・レイの《アングルのバイオリン》が競売に。写真作品として史上最高額の可能性も」『美術手帖』(2022年2月21日付記事)

「【作品解説】マン・レイ「破壊されるオブジェクト」」『アートペディア』(2023年1月16日付記事)



5. シュルレアリスムの身体(SURREALIST BODIES)

1930年代に入ると、マン・レイは、様々な著作の中で、理論化したシュルレアリスム運動に参加することを表明している:

「美は痙攣的であるか、あるいはまったくそうでないかのどちらかである… 痙攣的な美は、官能のヴェールに包まれ、爆発的に固定され、魔術的でありながらも実体的である」( beauty will be convulsive or it will not be at all [...] convulsive beauty will be erotic-veiled, explosive-fixed, magical-circumstantial)


マン・レイは、身体と官能というテーマに興味を持ち、肖像画やヌードを用いて、不変性と独創性を追求するために実験を重ねた。


特にスイス人アーティストのメレット・オッペンハイム(Meret Oppenheim;1913-1985)をモデルとしたこの時期の作品群は、マン・レイの代表作となっている。


また空を飛ぶキキの唇を拡大した『A l'heure de l'observatoire - Les Amoureux』(1934 - 1967)や、『Dessin érotique』(1938)のもつれた身体などの絵画やグラフィックは、様々な文法や言語を駆使して時代の風俗を探るマン・レイの技巧を物語るものである。

シュルレアリスムの歴史において重要なポイントは、1938年に開催された国際シュルレアリスム博覧会( the Exposition Internationale du Surréalisme )である。  

この博覧会に際し、『マネキンの復活』(Resurrection des mannequins;1938)という一連の写真や他のアーティストとの共同で書かれた様々な出版物が生み出され、それは、この文化的な革新とアヴァンギャルドの現実世界との相互関係を表現するものであった。

参考:

「How Méret Oppenheim Changed the Course of Surrealism Forever」『AnOther』(2017年3月2日付記事)


6.人間の身体、ポートレイトとヌード(THE HUMAN BODY. PORTRAITS AND NUDE)

マン・レイは、彫刻、写真、絵画においてヌードというテーマを追求していくことによって、脈動的、心理的、身体的な自身の美学やイメージを洗練させていった。

このセクションでは、マン・レイがいかにして同じ被写体を様々な方法で表現することを可能にしたかを浮き彫りにするために数々の写真が展示されている。



またこちらは、古典主義と美の形態について皮肉たっぷりに考察した、彼の最も有名な彫刻作品のひとつ、『修復されたヴィーナス』(Venus restaurée;1936)である。

( Venus restaurée (1936))


また『モード・オ・コンゴ』(Mode au Congo;1937)は、1931年のパリ植民地博覧会でマン・レイが購入した中央アフリカの頭飾りが、女性モデルによってオートクチュールとして紹介されているユニークなコレクションである。

その他にもマン・レイは、このパリ植民地博覧会で入手したパン籠や雑巾といった日用品を、美しく奔放なモデルたちの頭の上に置き、欲望の対象を表現した。

またマン・レイがパリ滞在中に頻繁に撮影したモデルやアーティストの日常的な写真を集めた作品集『モデルズ』(Models; 1937)など、彼の創作の原動力となったエロティシズムや自由恋愛を視覚的に表現した写真作品もここに展示されている。


7.パリからロサンゼルスへ、愛着(FROM PARIS, TO LOS ANGELES, AFFECTIONS)

1940年、マン・レイは、ナチス占領下のパリを離れてアメリカに戻った。

この時期、マン・レイはアートシーンの片隅にとどまり、孤立して制作することを好んだが、女性というテーマの重要性を一貫して問い続けた。


またこの時期、マン・レイは、人生における重要なミューズであるダンサーでモデルのジュリエット・ブラウナー(Juliet Browner)と出会い、1941年から1955年にかけて、『ジュリエットの50の顔』(50 faces of Juliet)と呼ばれる素晴らしい写真集を製作した。

50枚のモノクロ写真が収められたこの写真集には、色クレヨンを使って手作業でレタッチされたり、革新的な写真技術によってプリントされた作品が収められている。



8.ロサンゼルスからパリへ、情熱(FROM LOS ANGELES TO PARIS, PASSIONS)

1961年、ヴェネチア・ビエンナーレの写真部門金賞など、重要な賞を受賞したマン・レイは、その前衛芸術の巨匠としての名声も確固たるものとした。

1960年代から1970年代にかけてのマン・レイは、芸術家として全てを手に入れたかのように思われたが、研究、実験、修正、更新の歩みを止めることはなかった。


この頃、マン・レイは、より自動的な絵画技法を模索するために、「自然画シリーズ」(Natural Paintings;1958)を製作した。

それは、パレットナイフや筆を使うことなく、さまざまなものをキャンバスに押し付けては引き剥がす、というものである。

その結果、まるでロールシャッハ・テストのイメージような、偶然によって作られるバリエーションが生まれるのである。

本展のラストを飾るこのセクションでは、マン・レイの愛着の対象や彼の芸術作品全体を取り巻く曖昧さを浮き彫りにするために、『Pêchage』(1972年)のような既製品を使った作品が多数展示されていた。



以上、マン・レイの作品を年代順に振り返る本展。

会場はジェノヴァのドゥカーレ宮という14世紀に建てられた重厚な歴史的建築物でありながらも、展示されているのは、官能的かつ自由な身体をモチーフにした作品がメインであり、そのギャップが非常に愉快であった。

マン・レイやデュシャンの作品は、鑑賞する側がきちんと勉強し、作品を咀嚼しようとする姿勢を持っていなければ、「変なの」という一言の感想で終わってしまうようなものである。

写真、女性の身体、日用品…マン・レイは、これらのものを用いて何に迫ろうとしていたのか。

それは是非、作品を実際に見てそれぞれの鑑賞者が考えたいところだが、マン・レイの写真に写されたミューズたちの楽しそうな様子を見ていると、マン・レイは、自分の芸術や美が生まれる瞬間を常に目撃していたのだろうな、と少し羨ましい気持ちにもなったのであった。




「Man Ray. Opere 1912 - 1975 」

会場:Palazzo Ducale, Genova

住所:Piazza Giacomo Matteotti, 9, 16123 Genova, Italy

会期:2023年3月11日から7月9日まで→8月27日まで延長開催決定

入場料:13ユーロ(一般)、11ユーロ(割引)

公式ホームページ:palazzo ducale.genova.it


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?