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毒親被害者より、暗闇の中で苦しんでいるあなたへ

 今もし自殺を考えている人がいたら、あと一日待ってほしい。私はそうやってこの十年を過ごしてきた。そして今、とても幸せな日々を送っている。

 結論から言うと、一生逃れられないと思っていた毒親から離れることができたのだ。

 ここに至るまでの経緯はかなり複雑で長い道のりだった。たくさんのものを失ったし、正直心はズタズタで明日の光も見えないほどだ。それでも、なんとかここに立っている私の話を、少しでいいから聞いて欲しい。

 シぬのはいつでもできる。でも、生き続けることはとても難しいものだから。

 私は母親から虐待を受けていた。罵詈雑言(産まなければ良かった、シねなど)、存在自体の無視(作ったものを捨てられる、いないものとして扱われる、大切なものを捨てられるなど)、身体的暴力(叩かれる、突き飛ばされるなど)は日常茶飯事で、ついには家を出るためのお金まで家計費として奪われ始める。

 キョウダイがいるため、私一人では出ていくことができない。キョウダイも母親から被害をうけており、お金もとられていた。

 もう、生きていくのは限界だった。

 何度もソレを考えた。電車に飛び込もうとしたこともあるし(祖父に選んでもらった車の大破が嫌でやめた)、タオルで首を締めようとしたこともある(すごく苦しい)。某薬品を探したり(キョウダイ全員道連れが嫌で断念)、カミソリを当ててみたり(痛くて切れなかった)、薬を大量に飲んだり(ちなみに私が処方されている薬では、致シ量が千錠以上)。

 ミステリーやドラマなどで得た中途半端な知識のせいで、結局この世に戻ってきてしまう。

 良く「どのシにかたが一番楽なのか」などと議論されているが、正解はない。結局、シヌ間際は全部苦しいらしい。苦しい時間が何秒続くのかという違いだけ。そしてシンダあと楽になれるのかどうかは、誰にもわからない。

 有名人がソレをすると「美化するな」とおっしゃる方も多いが、私は違うと思う。シはいつだって美化なんかされない。周りの人にずっと暗い影を落とし続けて、未来からは置き去りにされる。シはそれだけ強い光を持つものだから。

 報道は美化するためにしているのではなく(もちろん一部そういう報道機関もあるが)、充実しているように見える方でもソレをしてしまうのだ、という事実を訴えている。まさか、ありえない、どうしてあの人が……だからこそ報道しなければならないのだろう。

 いまだに、故人を送り出すことは特別な行事だと考える地域がある。祭り事のように家族、親戚総出で宴会。一見無駄なことのようにも見えるし、家族葬で送り出す人も増えた現在、この風習は廃れつつあるらしい。

 大切なのは故人の遺志ではなく、家族の意志だ。どうしようもない悲しみの前で宴会はどうかと思う。どんちゃん騒ぎの横で涙できるほど、人間は甘くできていない。

 大切なのは押し付けないことだ。故人の遺志をくみ取って楽しく送るのもまた一つの形だし、多様性があってもいい。

 私も家族を看取ったが、静かに旅立ちたいとの遺言からごくわずかな人数で見送った。毒親がその場で親族ともめたことはまた別の話だが、葬儀とは遺されたものが心の整理をするためのものなのだと初めて知った。

 遺される人たちのことを一番に考えて欲しい。誰でもいい、家族でも、友だちでも恋人でもペットたちでも、仕事関係の人でも、近所の人でも、良く行くお店の店員さんでも、SNSで知り合った人でも、ゲーム仲間でも、バスで見かけるあの人でも。

 もしあなたがいなくなったら、少なくとも誰かは泣く。そんな人は誰もいないというのなら、私が泣く。泣かなかったとしても、皆どこかで心の片隅を痛めるだろう。それはもう、悲しんでいる人に影響を与えたということだ。

 一人で抱えてきて辛かったと思う。私もそうだった。けれど、手を差し伸べてくれるところは必ずある。

 ここへ電話して相談して下さい、が繋がらないこともあるかもしれない。だったら、繋がるまで何度もかけて欲しい。もし聞いてもらえなかったら、別のところへかけて欲しい。聞いてもらえるまでどんどん別のところに相談して欲しい。

 どうしてもそれができないなら、SNSで吐き出してみてもいい。日記に書いてもいい。心の中を覗けば、自分がどれだけ傷ついているのかもわかる。

 必ずあなたの話を聞いてくれる人はあらわれる。理解してはもらえなくても、寄り添ってくれる人は必ずいる。だからあきらめないで欲しい。

 きっと私がここに書いた文がただの偽善に見える人もいるだろう。私はすでに毒親から逃げられた身だ。そう思われても仕方がないと思う。

 このまま毒親が亡くなるまでずっと家の中に閉じ込められたままシんで行くと思っていた私が、何度もシを考えた私が、毒親から自由になってここで生きているのだから。人生は何が起きるか、どう転ぶのかわからない。

 まだ今は傷が癒える気配などなく、二次被害に涙する日々だ。イチから説明して下さいと言われて過呼吸になったり、連絡くらいできるでしょう笑われたり、親に恩返ししなさいと諭されたり。

 傷をえぐられて一日無気力になってみたり、貧乏状態で明日のご飯もままならなかったり。検索履歴は「貧乏飯」や「節約レシピ」でいっぱいだ。送られてくる請求書の金額に日々怯えている。大きな物音で必要以上に飛び上がり、毒親と同じ車種を見つけては吐きそうになり、置いてきた物への未練も断ち切れていない。

 それでも、キョウダイの笑顔を見ているとき、青い空を見ているとき、育ってきた豆苗を見ているとき、美味しいものを食べるとき、生きていて良かったと思える。

 だから、あきらめないで。明日できることは明日にまわして、辛いときはこの先を考えず、目の前の一秒を生きよう。一秒の積み重ねが一日、一ヶ月、一年になる。生きてるだけで偉い。本当にすごいことだから。生きているだけで、あなたはすでにすごいことを成し遂げているのだ。

 生きていてくれてありがとう。苦しく辛い道を歩いているのあなたの上に、一筋でも優しい光が降り注ぎますように。