適応障害になりました~発症から回復まで~

20代の頃、仕事のストレスから適応障害を発症して休職した経験があります。今回は、適応障害になってから回復するまでのことについて書いていきたいと思います。

適応障害になったきっかけ

20代前半から半ばにかけて、私は人材紹介会社(転職エージェント)で働いていました。当時は社員が10人以下の会社でしたが、最近調べたら従業員100人ほどまで拡大していてうれしかったです。私が在籍していた当時はスタートアップの時でした。

採用されたポジションは、営業アシスタント。小さな会社でしたので業務範囲は特に決められておらず、求人や候補者の情報管理・来社された方への対応・ホームページ管理・システム導入時の受け入れなど、様々なことを担当していました。忙しく給料も安かったですが、自分が力を発揮できる内容が多かったため、とても充実していました。

ところが2008年、あの悪夢のリーマンショックがやってきました。クライアント企業の求人数は激減し、小さな会社はあっという間に窮地に立たされることになりました。間接業務に人員を割く余裕はなくなり、私もクライアント企業の開拓や候補者との面談など、フロント業務に出されてしまいました。

適応障害の発症

フロントの仕事は私には不向きでした。電話一本、候補者との面談一つ、クライアント企業の訪問一つ、どれをとっても苦しい。でも、社長や同僚にはとても恵まれていて、ここでみんなと一緒に頑張らなければ自分には価値がないと思い込み、無意識のうちに相当な無理をしていたと思います。
次第に朝が来るのが怖くてなかなか眠れなくなり、ある日仕事からの帰り道、最寄駅から自宅まで夜道を歩きながら、ダラダラと涙が止まらなくなりました。

それでも会社では普通に振舞っていたつもりでしたが、私の異変を察した社長に呼び出され面談をすることになり、その場で泣き崩れてしまいました。
翌日から有休を取らされて、すぐに精神科の受診をするように言われました。

心療内科の受診

精神科を受診することにはとても抵抗がありました。しかし、そんなことに構っていられないほど追い詰められていた私は、すぐに予約を取りました。

初めての受診は医師に状況を説明する必要がありますが、ほぼ泣きっぱなしでしたのでとても時間がかかりました。主治医は根気強く話を聞いてくださったと思います。そこで、コミュニケーションフォーマットというものが書かれた用紙を渡されました。読んだ瞬間、ドキっとしました。思い当たる節が多すぎたのです。

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・重要な他者とのコミュニケーションに問題があると、それ自体が重大なストレスとなり、ストレス耐性が下がる。
・親との関係に未解決の問題を抱えていると、職場でのストレスにも弱くなることがある。

今でこそハッキリ言えますが、私は親、特に母親のことが嫌いです。身体的な虐待こそありませんでしたが、精神的虐待と呼んでいい程度のことはたくさんあり、子どもを自分の思うようにコントロールしようとする支配系の毒親でした。適応障害を発症したのは、家出同然で住所も教えずに一人暮らしを始めて実家との連絡を絶っていたときです。

まさか、このような状態になった原因の根っこに親との関係性が係わっているとは、当時の自分には青天の霹靂でした。
「親との関係性でストレス耐性が下がるんだ。自分が弱いのは自分だけのせいではなかった」と思うと、それだけで少し心が晴れたような気がしました。

通院と転職で回復

通院して服薬しながら同時に転職活動を行いました。仕事のストレスが原因だったため、主治医からは同じ業務内容では復職を勧められないと言われたからです。
無事に転職先が決まって新しい仕事を始めると精神的にだいぶ安定してきました。仕事が忙しくなってきたことと、たまたま転職先が通院していた病院の目と鼻の先だったため、いざとなったらまたすぐ行けるという安心感からそのまま通院するのをやめましたが、幸い再発することはありませんでした。

精神科に行くことは恥ではありません

私自身、自分には無縁だと思っていた精神科のお世話になる日がくるとは思っていませんでした。私の場合はすぐにストレス源から離れることができたので重症化せず回復も早かったですが、無理をし続けてうつ病になってしまう人も多いと主治医から聞きました。
そうなると適応障害と異なり、ストレス源から離れてもすぐに回復しないことが多く治療も長引くそうです。

自分がおかしいと思ったら、また身近な人がおかしいと思ったら躊躇せずに精神科を受診して欲しいと思います。


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