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議員として「スーパーフラット」な考え方を持っていたい、という話のあれこれ。

こんばんは、佐々木です。
一月半ばなのに、昼間は非常に過ごしやすいこの頃ですね。
わがやは川っ端にあるので、毎年冬は日々強風だった気がしていて冬が憂鬱でしたが、今年はなんだか平気です。
薪ストーブを焚かない日もあるくらい。

前回のnoteで書いた今年の抱負の中で「読書」を掲げていたわけですが、今のところ大変順調に読書時間を意識的に取れています。

読んでいる本で特に面白いなあと感じるのが、かつて読んだことがある本の再読。
時間が経って、モノの見方や価値観が多少変わっているのでしょう、
何を読んでもある意味新鮮な発見が多いです。
読んだことがあるからすいすい読めるのも面白さがある。
一度クリアしたゲームを余裕しゃくしゃくで再プレイしている感覚に似ています。余裕があるから新発見が多い感じも。


2016年1月30日から4月3日にかけて横浜美術館で開催された「村上隆のスーパーフラット・コレクション―蕭白、魯山人からキーファーまで―」に足を運んで以来、村上隆氏のファン。

久しぶりに開いたこの展覧会の極厚の図録。
この展覧会について、村上氏本人の言葉や、様々な方々の解説や考察が非常に興味深く、改めて「スーパーフラット」について、自分なりに巡らせた思考をここに書いておこうと思う。


村上隆氏の提唱する「スーパーフラット」という考え方、物事の捉え方、モノの見方がものすごく好き。本質的で安心する。

村上氏本人は「私はこの世を知りたいがために、その理解をするためのレンズを『芸術』とし、こだわってきている」と語り、
展覧会当時の横浜美術館館長の逢坂恵理子氏は「独自の美意識と視点で選択された圧倒的な作品群は、既存のヒエラルキーを解放し、並列化する村上自身の『スーパーフラット』的価値観と生き方をも象徴しているといえる」と評している。

「スーパーフラット」とは、生き方なのかもしれない。
私も、アートに対してだけではなく、すべてに対してそうありたい。


自分とはこういうものだ、という枠組みは、自分のアイデンティティの強さを出すだろう。
しかし一方で、その枠外の価値観に少なからず排他的になるのは否めない。
そうではなく、みうらじゅん氏の言う「自分なくし」を目指す"修行"を積むのがよいと思う。
「自分さがし」ならぬ「自分なくし」はかなり面白く、本質的。
よかったらこの動画を。


レゲエの人たちは"you"という言葉を使わず"Ⅰ&Ⅰ"(アヤナイ)と言うのだそう。
これは「"私"というひとりひとりは皆違う。だからみんな一緒だよね」という意味でもあるし「あなたの中に私もいるよ」と、相手の中に自分を見出すことでもあるそう。
リチャード・バックの小説「ONE」の全体から漂うメッセージ性もまさにそのような感じだ。


日本人とインド人の躾の違い。
日本人「人様に迷惑がかからないようにしなさい」
インド人「お前はどうしたって人に迷惑をかけて生きていくことになるのだから、人のことも許してあげなさい」

インド式のこの感じもまた、"お互いさま"という精神で、和む。


端的に言うと
「みんな色々あるよね!」


「スーパーフラット」なモノの見方で"真に力のあるもの"に出逢うには、よいも悪いもたくさんのモノに触れることが重要であろう。さらに、知識や経験が必要である。とにかく自分の五感で感じるという経験を重ねること以外にはないのではないか。ネットの情報だけでは無理無理、リアルが大事。

あの吉田松陰も、北方にロシア船が出没したと聞けば青森まで行き、黒船が来たと聞けば下田に行き、さらに異国を見聞しようとペリー艦隊へ小舟で乗り込み密航を試みるという、徹底的な現場主義、一次情報主義。


議員という仕事は、文字通り「机上の空論」になりがちである。なおかつ、文化や歴史によって形成された"しがらみ"によって、言動に偏りが出がち。
スーパーフラットな考え方で、客観的・大局的・本質的な政策のためには、勉強や調査はもちろんのこと、現場に足を運ぶことである。
「机上の空論」にだけは気をつけたい。

川根本町議会議員 佐々木直也

2016年3月。横浜美術館にて。

なんと、「村上隆のスーパーフラット・コレクション―蕭白、魯山人からキーファーまで―」のサイトはいまだに見れる状態である。
キュレーターの言葉や、展覧会の見どころなどが見れれるので興味のある方は覗いてみては。


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