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認めてもらえないことが死ぬほど怖い。

こんにちは。なおきです。
最近、双極性障害と診断された方の文章を読むと、とても共感できるところが多いですね。絶望感の起こり方とか、全部どうでもよくなる感じとか。もし病院にかかっていたら同じように診断されたのかな。

今日、お世話になっているゲストハウスの方に「ここで仕事してみてどう思った?」って質問されて、頭が真っ白になりました。懐かしい感覚。前職ではミーティングのたびになってた症状ですね。その時は白ではなく真っ暗でしたけど。
普通に答えれない自分が情けなくって、嫌になります。「バイトの人からもホスピタリティという言葉が出てくるほどみんなの意識が高くてすごい」とか、「とても綺麗で居心地がいい」とか、言いたいこと、感じていたことはあるのに、口ごもってしまう。相手がどう受け取るか、どう言えば合格点を出せるか迷って、怖くて、何も言えなくなってしまう。何も言わないということは、良い感想がないんだなと判断されてしまうぞ、と考えて絶望が顔を出す。なんとか答えを出そう、出そう、出そう、出そう、出そう、出そう、出そうだそうだそうだそう

ぷつん



今回はそこまでいく前にたまたま別件で話を割り込んでくれた人がいて、助かりました。一呼吸おくことができて、なんとかなった感じです。こんな質問、向こうからすればただの雑談ですし、簡単に思ったことを言えばいいだろうなーとは思うのですが、なかなかできません。久々に自己嫌悪の渦に巻き込まれるところでした。危なかった。

相手の期待に応えたい、という気持ち

相手に認められたい。テストに合格したい。そういう感覚は誰しもが持っているものだと思います。単純な承認欲求。他者からの承認は、求めすぎると毒ですが、ほどほどであれば一般的で、努力の原動力にもなるものです。
でも、僕の場合は、ただの承認欲求ではなく、承認されないことを恐れています。この人にバカだと思われたらどうしよう。嫌われたらどうしよう。凄い奴だと思われたい。できる奴だと見られたい。あーこわいこわい。

この恐怖心はどこから来ているんだろうと思って、iCloudを探って前職の時に書き留めていたメモを読んでみました。下のメモは退職を会社の全体スレッドに報告しようとしてまとめた気持ちの一部です。()はわかりやすいように追記してます。鬱注意


(考えたことが)できないならやればいいじゃん。わからないなら勉強すればいいじゃん。しんどいなら相談しろ。思いつかないなら考えてひねり出せ。

できない人は無価値。できる人は正義。そんな組織風土の中、寝ても覚めても仕事のことを考え、本を読み、たまに音楽や散歩でストレスを吐き出し、また仕事に向かう。終わらない時間。(問い)詰められる恐怖。

頑張りたい。努力したい。あ、今10分くらい別のこと考えてたな。集中しなきゃ。
できるようになりたい。あの人のようになりたい。自分は努力が足りなすぎる。
あ、あの人つらそうな顔してるな。自分にできることはないかな。でも自分の仕事も終わらない。

集中できない自分は無価値。朝起きてやる気の出ない自分は無価値。助けられない自分は無価値。期待に応えられない自分は無価値。

こんな気分になってたら駄目だ。単純な話だ。できるようになったらいい。これは練習だ。これは下積みだ。できない自分をさらけ出そう。よし頑張ろう。

あれ、本気でやったんだけどな。これまたゴミなんだね。
なんでやる気はいなくなるんだろう。なんで本気は伝わらないんだろう。結果で勝負。わかっているけど。言われなくても努力はしてたよ。

また響く冷たい声。怒鳴り声。泣き声。苦しい。何のためにやっているの。
頑張っているよ。みんな。なんであなたも自分を虐めてまで怒鳴るの。なんで苦しみながら苦しめるの。みんなつらい。だったらおれがやろう。おれが苦しもう。

苦しんでも無価値。苦しまなくても無価値。あとは死ぬだけか。

結局、このメモはさゆりさん以外の目にとまることはありませんでした。
ひさびさに読んだけど、一言言えるのは「辞めてよかった」ということ。人生をかけてまで自分を追い詰める意味なんてない。自分を大切にしないと、他の人を大切にできないですしね。

僕は自分が「無価値」であるように思えて苦しんでいたんだなと思います。逆に言えば、自分が価値ある存在だと思えるようになりたかったんでしょうね。その判断基準が、「会社で認められているかどうか」。会社で認められる手段って普通は結果を出すことですよね。だから、結果を出さないと認められないってのは普通のことで、認められない=無価値というぶっ飛んだ論理で勝手に僕が絶望していただけだとも捉えられます。会社の人からしたらびっくりしただろうな〜。

でも、上司が言った「死ぬ気でやるってことは、この目標を達成できなかったら死ぬんだよな」とか、「お前らみたいに努力しないのは有限な人生に対する冒涜だから」という言葉は、鮮明に覚えています。こういう言葉はボディブローのように後からじわじわ効いてきます。休みの日にリラックスしている時、ちょっと二度寝した時。人間らしくのんびりしている時間に、心の片隅で黒々とした毒素を吐き続け、いつの間にか心全体が真っ黒な絶望感で染まってしまうのです。

そうして自分を責め続け、自分が無価値な存在であると思い込んだ僕は、人に認めてもらわないと生きていけなくなってしまったんでしょうね。自分で自分を承認してあげることができないから、他人の承認がないと自分を保てない。生きてていいんだ、という自信が持てない。生きててはいけないんだ、と考える。死にたくなるほどの自己嫌悪に包まれて、痕跡も残さずに消え去りたくなる。

どんな答えも大丈夫だよ

最近は小さなイライラは起こりますが、大きな絶望感はありませんでした。久しぶりに絶望を感じたのでびっくりしましたが、以前ほど自己嫌悪に包まれることはなかったのでホッとしています。
雑談の中の質問にも気をつけないといけませんね。特に、年上のビジネスマンに問いかけられる質問には恐怖を感じます。どんな答えも大丈夫だよ。思ったことを率直に言えばいいんだよ。そうやって自分を励ましつつ、自分の答えを発言することに慣れていきたいなと思います。

絶望感や自己嫌悪を感じるのは苦しいですが、旅をしていたり人と話していたりすれば避けられないことです。でも周囲に責任はなくて、今回も質問をしてきた人は心の底から雑談のつもりです。悪気があるわけがありません。むしろ話しかけてくれて本当にありがたいくらいです。
では僕の中に責任があるかというと、因果関係はあっても、責任はないと思います。責任という言葉には、「責める」というニュアンスが含まれている気がして、つらくなるので。僕の現状は今この瞬間には変えようがなく、絶望を感じた時にはどうしようもありません。受け入れるしかない。

例えて言えば、キャッチボールをしていて、ボールを取り損なったようなものでしょう。そのボールがたまたま鳩尾に当たってひどく痛んだとしても、誰も悪くはないです。ボールを投げた人も、僕にぶつけようとしたわけではない。変化球を投げたわけでもない。取り損なった僕も、別に悪くはない。

「次はとれるようにしよう」

そう考えればいいだけ。むしろ、今回取り損なったボールのおかげで、グローブが傷んでいることに気づけたかもしれない。
質問してくれた人がいて、絶望感があって、それに気づいたからここまで自分を振り返ることができた。今度同じ質問がきても同じように苦しむことはないでしょう。一歩一歩前に進んでいる。本当に感謝でいっぱいです。

きっと同じように苦しんでいる人がたくさんいると思います。どうか、こんな悲しいことで苦しむ人が全員救われてほしい。みんなが、心安らかに生きることができますように。

なおき

読んでくださって、本当にありがとうございました。