生理的に感じる「なんか好きじゃない」はスルーすべきじゃないのかもしれない
誰にだって、「なんか嫌だな」「はっきりした理由はないけど、私は好きじゃない」そう感じるコト、モノがあるだろう。もちろん、わたしにもある。
そういったものには、できれば近づきたくない。見ないふりをしたり、聞こえないふりをしたりして、自分のテリトリーに入れないようにしがちである……が、本当にそれでいいのかな? ということを、ふと考えた。
◇
ここで突然、小学生の頃を思い出してみる。
あの頃は好きでもない子(むしろ苦手な子)ともグループ行動を強制され、なんなら修学旅行では同じ部屋にさせられ、せっかくの旅行だっていうのに憂鬱な気分にさせられたりしたものだ。
今これを読んでいるあなたにも、似たような経験があるのではないだろうか。
わたしは、大人になる特権の一つが、「なんか好きじゃない」と感じるコト、モノ、そしてヒトから距離を置けることだと思っている。
もちろん仕事だなんだで、そう簡単にはできない状況があるのは理解している上で、子どもよりはずっと自由に、自分の意思で周囲の環境をカスタマイズできるはずだ、と。
だからこそ大人になると、自分にとって心地よくないものから遠ざかるようになる。時間やお金が許す限り好きなコトをして、好きなモノに囲まれて、好きなヒトとだけ付き合うようになるのだ。
それは生物としての、一つの防衛反応でもあるだろう。好きじゃないものに触れると疲れるし、ストレスは増えるし、心がチクチクしたり、カサカサしたり、モヤモヤしたり……とにかく、不快なのだ。
でも、そこですぐにシャットアウトするのではなく、時には「なぜ、不快なのか?」と考えることも必要ではなかろうか。ふと、そう考えるようになった。
例えば、誰かの言葉で不愉快な気持ちになるとしたら、それが自分にとってどんな意味を持つのか、改めて考えてみる。すると、不愉快になるのは実は、相手が自分に足りないものを持っているからだとか、そういう見たくない事実が浮かび上がってくるかもしれない。
明確な理由のない「なんか嫌」をスルーするのは簡単だ。しかし、あえてそこから目を逸らさずにいることで、新しい景色が見えてくるーーそう考えてみるのも、たまには良さそうな気がする。
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