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手を伸ばせば思いはそこに。

書くって、言いたいことがあるから書くんだと思う。数年前までは習慣のように書いていた(ほかのブログ)ので、よほど物申したいことがあったのかも知れません。

書くときは、内容や届けたい人を(ほぼ無意識に)ターゲット設定していたようです。ふんわりと、ゆるやかに文を書くこともできるけど、自分基準で書ける立場になると、どうしてもモチベーションが滲んだインクみたいにぼやけるような気がします。

締め切りがある、書く目的がある、伝えたい何かがある、みたいなクリアーな動機があったほうが書きやすいし、達成への力が発揮されやすいかもしれません。


noteは目的を特に定めず、雰囲気がスキという理由だけで何となく書き始めました。

最初は読む専門で、クリエイターさんの文章から滲み出るモノにただただ浸ったり、知的好奇心を刺激されたりする範疇で楽しんでました。

たぶんnoteを知ったのは2017〜18年頃。クリエイターやアーティストのための場という認識でいたので、わたしみたいなフツーのヒトが入り込む隙なんてアリンコの巣穴ほどにもないと思ってました(笑)。

専門的な知識をもっと深めたり、誰かにシェアしたい(シェアできる)ときや何かができたら、もしかしたら参入することもあるかもね、くらいな立ち位置で目を細めて遠まきにnoteを眺めていたものです。

ですが、この立ち位置って何を始めるにおいても同様なことが言えるように、自分にゴーサインを出すタイミングはいつでもいいし、資格なんてものは存在しないばかりか「はじめました」と宣言しちゃえばいいだけです。

いつでもスタートラインは目の前にあって、あなたの足もわたしの足もいつでも一線を踏み越えることができる。なんて、素晴らしいことでしょう。ひとつも難しいことなんてないのですから。

「誰でも書くことを楽しめる」

その機会を与えられていることが嬉しいですし、必要性やマストを強いることなく、ほどよい距離感で歩める。自己を発見したり、どなたかの気づきを自分の内と照らし合わせたりできるってホントに面白いです。

このところ、すこしnoteをお留守にしてました。その間にもスキやフォローをいただいたりするとうれしいです。ありがとうございます。

特にnoteデビューを果たしたばかりの方やアカウントはあるけど久しぶりに書いたよ、な方からの反応は自分が noteを始めたばかりの頃のことが思い出されて、なんだか顔を赤らめたくなるような、少しお尻がムズムズする感じがあるんですよね。

誰でも最初はゼロからのスタートです。どこぞの誰がわたしの拙い文を読んでくださるのだろうと、心細い思いを抱きつつもそれでも何かを書いてみたいという衝動の積み重ねがいまのわたしを作ってくれてます。

noteを始めたばかりの頃は、いつかこんな風にかけたらなと憧れの思いを込めながら皆さんのnoteにスキ♡してたので、スキをくださる方々はどんな思いで読んで下さってるんだろうといまだに想像したりすることもあるんですよね。


個人的にはその方の「ふだん暮らし」をすこーし肩の力を抜いて、自分なりの佇まいで書かれた文章がスキです。日常にこそ「その人らしさ」があちこちに散りばめられる(と思う)。なので、より自分のカラーや質感と似ているところ、逆に全く違う点との陰影がレリーフのように浮かび上がってくるのが面白い。

それが、イイでもワルイでもなく、その人をより近く感じたり、手を伸ばせば触れられるかのようにイメージするのがたまらなく面白い(あぶない?)。わたしがゲームをしないのは、リアルな世界に生きながらバーチャルなイメージをすでに存分に満喫しているからこそともいえるのかも。

ちなみにもう一つのバーチャルな楽しみ方は読書です。昨年暮れあたりからいろいろ読みはじめ、最近はさらに読書へのお熱が上昇中。自分なりのメモやアウトプットの練習という意味でも読んだ本について何か書いてみるのも良いかも知れない。「書くを楽しむ」は、まだまだ続きそうです。



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