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「えへへ」と笑う④母と私

2020年4月24日。
初回の抗がん剤投与が始まった。
母のことが一日中気掛かりだったが私はこの日、打合せが立て込んでいて病院の面会時間に間に合いそうにない。
コロナ対策のため面会時間も短縮されていて、病室に上がれるのはひとりだけ。20分ほどの面会しかできない。
夕方、ようやく電話ができる時間が空いたので掛けてみると、いつも通りの声で母が電話にでた。
「意外と大丈夫だったよ。ちょっときつい時は、てんちゃんが教えてくれたように薬が効いているんだなぁと思ってた」
(母は私のことを、てんちゃんと呼ぶ)
母がひとりでつらい時に思い出してほしいと思って伝えていた言葉をちゃんと受け取ってくれていた。
できる事は少ない。それでもお守りになる言葉をいくつもいくつも渡そう。

仕事帰りにスニーカーとパジャマを買った。明日持って行ってあげよう。
(このスニーカーは気に入ったようで、退院してからもずっと履いていた)

翌日、母に会いに行くと昨日の電話とは打って変わって、きつそうに寝ていた。顔も赤く浮腫んでいる。
具合を聞くと「体が重くてだるい。テレビも見たくないよ」と力なく答えてくれた。夜もあまり眠れなかったようだ。
抗がん剤は投与して2~3日がきついため、いまは辛抱するしかない。

「髪は全部抜けるかな?」
「抜けてもまた伸びるから心配しなくていいよ。伸びるまでウィッグ被る?」
「帽子にする」
「かわいい帽子買おうね」

ポツポツと母と話をする。
やはり数か月前から背中とも腰ともわからない部位に痛みがあったそうだ。
そう言われて、腰を痛がっていたことがあったなと思い返す。
その時に
あの時に
何か気付けていたら、母の未来は違うものになっていたかもしれない。
こんな末期の延命しかできない状態ではなく、治療が選べたかもしれない。
私が忙しくしていたから遠慮して言わなかったんだろう。
言いようのない後悔の念に飲み込まれて呼吸をすることさえ憚られる。

「痛いのに気付いてやれなくてごめんね」と言うと「そんなことはいいよ~」と母は笑っていた。
八つ当たりでもしてくれていいのに、こんな状況であっても文句も言わず、朗らかに笑っている。私の母はこう言う人だ。
遠慮深く、口下手で、なんでも我慢してしまって、おまけに賢くない。

唐突だけれど、母の携帯はガラケーだ。
「好きな音楽聴けるし、LINEすると楽しいと思うからスマホにしたら?」と折に触れて勧めてみたが、最期まで二つ折りのガラケーを持っていた。
電話とメッセージを送るだけのらくらくホン。
もちろん、パソコンなんて使わないからインターネットでいくらでも調べ物ができる現代において、母は情弱の中心にいた。
だから知らないのだ。膵臓癌の恐ろしさを。憎たらしさを。
私は仕事柄、日常的にカルテを見る。
専門職としての病院勤めは長かったし、起業の業種も医療関係なので変わらず病院に出入りする仕事をしている。
これまでに膵臓癌患者のカルテも何十冊と目にしてきた。
けれど、その大量のカルテの中に脊髄小脳変性症と膵臓癌を併発した患者はひとりもいなかった。

統計上の話だと前置きをされて担当医から伝えられた、1年生存率は20%の話が何度も何度も頭の中を巡る。
こんなことを私が思っていてはダメなんだけれど、どんなに贔屓目に見ても母がその20%入る未来が描けない。
思わず「長生きしてね」と口をついてしまう。母は口ごもって何か言いかけたようにも見えた。
しまった。完全に余計な一言だった。
少しの間をあけて母は「てんちゃんはいつまでも居なさいね」と寂しそうに言う。
赤く浮腫んだ顔で、きつそうにベッドに横になって、人のことばかり心配している。
いつまでも居てほしいのは母のほうだ。鼻の奥がツンとして涙がこぼれそうになる。
私はこの一連の会話を取り消すように、わざと大きな音を立てて紙袋からパジャマを出す。
「これどう?猫の刺繍があるんだよ」と、昨日買ったばかりのパジャマを見せた。
母はベッドから少し起き上がって新しいパジャマを手に取ると
「あら~かわいいね~。猫がおるね~えへへ」と目を細めた。

母はよく「えへへ」と笑う。可愛らしくて大好きな笑顔だ。

持って行ったイチゴをおいしそうに食べる。水筒の温かいお茶も飲んだ。
母との何気ない時間が本当に本当に愛おしかった。


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