【小説】蝶はちいさきかぜをうむ その1
洗い屋は何でも洗います。
街灯、屋根、公園のベンチ、衣服やカーテン、野菜、食器類、犬、なんでも、です。
薄暗く、何かが腐ったような匂いが漂う裏路地。
街灯を磨きながら遠くの罵声に振り向きました。
ガラスが割れる音、家が揺れるほどの大きな音を立てて乱暴に閉じられるドア。
微かに子どもが泣く声が聞こえてきます。
「18…あと、2つ」
洗い屋の少女は裏路地の街灯を洗っていました。
この裏路地の街灯は20基。あと2基で終わりです。
もう夕食どきが近いのか、家々では食事の支度をする音が聴こえてきます。
カリカリカリカリ
岩チーズを削ってるな…
チチチチ…カンっ びびびびーん
調理台の電熱器のスイッチを入れてる…
ジュバッ じょわぁー じゃじゃじゃっ
うん、この匂いは電熱器を熱々にして穴鶏と豆キャベツ、黄車の実を炒めてるな…
おいしいんだよなぁ、アレ…あ、よだれが、
どがっ ばたーん!がごごごっ
「じゃあ、どうしろって言うんだよっ!」
突然の大きな音と怒鳴り声にびっくりして危うく落っこちそうになった少女は街灯の傘にはっしとしがみつきました。
見るとすぐ横の家では食事の最中のようでした。
蹴飛ばされたのか、部屋の隅にさびしそうに横たわっている椅子。
食卓には少し欠けのあるずんぐりした陶器の器から湯気の立ち上る温かそうなスープ。
それと、数切れのパン。
「工場も電車も止まっちまってるんだ。どうやって仕事に行くんだよ。行ったって仕事もないんだよ。ついに発電風機まで止まったってよ。」
「おじさんに、援助をお願いできないかしら?」
「通信も途切れ途切れだ。紙手紙機を飛ばそうにも風がないからほんの数メートルで堕ちちまう。」
「そんな…」
「俺だって、…俺だって…
こんな蔓芋だけのスープじゃなくて、もっと腹いっぱいお前らに食わせてやりてえよ。」
ふと、窓枠に肘をついてぼんやりと外を見ている子どもと目が合いました。
両親の喧嘩する声を聞きたくないのか両耳を小さな手で覆っています。
少女は丁寧に拭きあげた街灯のスイッチをカチリと回しました。透き通った明かりがぽわりと子どもの頬を照らします。
遠くを眺めるように街灯の灯りを見つめる子どもにほほ笑み、少女は子猿のようにするすると慎重に街灯を降りました。
洗い屋の仕事は大変だろうと言われます。
確かに冬は手がかじかむし、天気の変わりやすい夏には洗ったそばからどしゃ降りの泥水で汚れてしまうこともしばしばです。
でも少女はこの洗い屋の仕事が好きでした。
無心になって洗う。磨く。
汚れがどんどん落ちて、真っ新なキラキラした姿が現れる瞬間、お腹の底からきゅわぁーっと嬉しさが空苺サイダーのようにパチパチと込み上げてきてまるで胸からたくさんの蝶が飛び立ったかのような開けた感覚になり、思わず鼻歌がこぼれます。
彼女が洗ったものたちは、ひときわピカピカと輝き、まるでキラキラと笑っているかのようになりました。
そうしてそれらを使う人たちの心まで洗ってしまうかのように清々しい気分にさせるのでした。
どんよりとした薄曇りで裏路地には光が差しません。そんな裏路地でひっそりと足元を照らしている街灯たちは洗い屋の少女によって新品そのもののように自信を取り戻し、煌々と輝き始めました。
いつの間にか裏路地からは怒鳴り声や物が壊れる音が聞こえなくなっていました。
「まるで、雨雲の中を歩いてるみたい」
まとわりつくような湿った空気の中を少女は鼻歌をうたいながら、すいすいと泳ぐように帰っていきました。
ここ数年、風のない日が増えています。
というよりも、気まぐれに深い渓谷から噴き上がる間欠泉が僅かな熱気を含んだ生あたたかい風を置いていくくらいで、ほとんどは風が吹かない日が続いていました。
この街は山々に囲まれており、お椀のような窪みにありますので、水は豊富にありましたが空を駆け抜けていく風たちはなかなか立ち寄ってはくれませんでした。
澱んだ空気は人々を神経質にさせました。
不作が続き、少しずつ食卓がさみしくなっていきました。
まず、奪い合うように食料品が減り、衣服や道具類、仕事までも我先にと手に入れようとしました。
権利を主張する場面が増え、些細なことで争いが起こるようになりました。
大人のイライラに敏感な子どもたちは、自然と走り回って遊ぶことが少なくなりました。
うるさいっ!
と怒鳴られたり、物を投げられたりするのが怖いからです。
街からは子どもたちの笑う声が聞こえなくなっていました。
ほんの数年の内に、街は不安という病に冒されてしまったかのようでした。
作 なんてね
ちょっぴりあんこぼーろ
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