見出し画像

医師と父親、2つの立場で語ってみる全く科学的ではないコロナの話

もうすぐ5類に移行する新型コロナウイルス。
志村けんさんが亡くなった衝撃からも、早くも3年が経過しました。

私は2児の父であり、在宅医療を行うクリニックを運営しています。
そんな立場から見たコロナの狂乱について、ちょっと思うことを書かせていただきます。

【繰り返す一人暮らし生活】

コロナが日本に上陸した当初1年間ほどは、多くの医療職が自宅に戻れず泊まり込みで生活を送っている、というような報道がなされていました。
私も様々な状況で一人暮らしをしたり、自宅に戻ったりを繰り返していたのですが、コロナの毒性が弱くなったと言われ出した昨年7月、いわゆる「第七波」と言われ始めた頃からの約2ヶ月間も、私は家族と離れて一人暮らしを送っていました。

この話をすると、多くの友人は
「毒性が弱くなったコロナの対策にそこまでしてたんや!」
という反応を見せます。
医師の友人にも、そういう反応はちらほらと。
ではなぜ、私はそんな選択肢をとったのでしょうか・・?

【逃げ切れる自信の喪失】

まず一つ目の理由は、生活の中での感染リスクがとんでもなく高くなっていたという点です。
コロナの「第五波」くらいまではまだ、世間の感染対策が広く浸透していて、それなりに効果をあげていました。
そのおかげで言わば、逃げる私は狙い打つ狙撃手の方に向けて盾を構えることができました
しかし、2022年に入ってからは四方八方から散弾銃で撃たれるかのようで、自分が撃たれず逃げ切れる自信が持てなくなったのです。
家族も同様で、一般のご家庭よりも相当厳しい感染対策をとるように伝えてきましたが、それでも乗り切れる自信がなくなってしまいました。
それなら、極端に異なる生活をしている私が家族から離れた方が、私と家族の間での感染させ合いのリスクを避けられます、よね・・。

【感染対策バブルの崩壊】

マスコミは5類移行が決まってから、「ハイリスクな方はより一層の感染対策を」と言いますが、これだけ感染が広まり、かつ社会的な対策が緩むと、それは非常に厳しいと言わざるを得ません。
この点に関しては、昨年7月の時点でも、すでに痛いほど感じていたことでした。

私が運営するクリニックで訪問診療を行う方は、皆さん多様な基礎疾患をお持ちで、コロナの感染に対してリスクが高い方ばかりです。
こういった方の中には、多くの支援者の支えによって生活を維持しているケースもかなりあります。
そして支援者がどれほど感染対策を取ったとしても、日常生活を今の散弾銃の中で過ごせば、かなりの確率で被弾してしまいます。

まして、昨年7月からの第七波の感染拡大は子どもが中心で、働くために子どもを預ければ、集団生活の中で感染した子どもが支援者に持ち帰る可能性も高く、これも非常に難しい点でした。

さらには、無症状でも感染させる力を持つという、コロナの難儀な特徴が加わります。
私は昨年、全く自宅から出ることのない寝たきりの独居の方がコロナ感染したケースを経験しました。
もちろん、訪問するヘルパーなどの支援者は何らかの症状があれば休みますし、かなりの感染予防策を講じているのですが、それでもどこかから持ち込んできたことになるわけです。
こういうケースに遭遇すると、これ以上何をどうしていれば感染を避けられたのか、頭を抱えたくなるんですよね・・。

そして現実、ハイリスクな方の死亡例は第七波ではかなりの数になりました。
現在はあまり報道されなくなりましたが、3年前ほどではないにせよ、やはりハイリスクな方にとって怖い感染症であるという状況に変わりはありません
ハイリスクな方だけを感染対策バブル内において守る、というのは、爆発的に感染が広まった中では非常に難しく、そのための努力を相当レベルでやっていても守り切れなかった時の呆然自失感は、多くの医療介護福祉の関係者の方が感じたことがあると思います。

【青春って密】

以上は医師としての私の立場から見える世界のお話です。
その一方で、仙台育英高校が2022年の夏の甲子園で優勝した時、須江監督が口にした言葉がこちらで、これには大きく心を揺さぶられました。

私にも子どもがいて、私の仕事のために、このコロナ禍では、一般の家庭よりも相当厳しい感染対策を教え、やらせてきました。
その結果、青春を少なからず犠牲にさせてしまったという思いがあります。

13歳の2年半は、人生の20%。
47歳の私に逆換算したら、20%はおよそ9年半。

「青春って密」という言葉を聞いて、青春時代の友達との経験や楽しみ方自体が物理的に密、という意味とともに、我々大人に比べて時間的にも非常に密なことを指しているなと感じました。

そんな密な時間を送っているローリスクの子どもや若者に、先の見えない我慢をどこまで強いるのか・・。
子どもの父親の立場で考えると、子どもたち本人へのリスクはワクチン接種で相当低くなっている中で、私の仕事のために「密な青春」の経験を犠牲にさせ続けることには、かなり辛いものがあるのです。

【withコロナ・・】

このようなことを総合的に考え、昨年の夏、世間がコロナを許容しだしてからも、私は家族と離れて生活するという選択をとりました。
その後も断続的に一人暮らしを繰り返しています。

そんな生活を送りながら思うのは・・。
世間では「withコロナ」と言いますが、どちらかと言えば「ignoreコロナ」の様相に見えてしまうのですよね。
世間というのはもちろん私自身のことも含むわけで、上で述べたように、父親として自分の子どもへのリスクはある意味で「ignore(軽視)」せざるを得ないが、仕事においては最大限の対策をとり続けるという、非常に悩ましい舵取りが続く状況にあります。

5類になっても同じです。
5類になったから、急にコロナが大人しくなるわけではありません

かと言って、私は5類になることに反対でもありません
1年や2年でおさまることなら社会全体が全力で乗り越えようとする価値は高いかも知れませんが、これからも長期間にわたることが確実視される状況においては、コロナがあるのがもはや日常
・・そう考え方を切り替える、つまり「ignoreコロナ」に向かわざるを得ない時期にあるというのも十分に分かるのです。

「正義の対義語は悪ではなく、また別の正義である」
どこかでこんな言葉を聞いたことがあります。

私という同じ一人の人間でも、支援者の立場と父親の立場の間で、これだけ葛藤を抱えて揺れ動きます。
医師としての正義と、父親としての正義
これからも、両者の狭間に悩み続ける日々が続きそうです。
せめて、この気持ちの揺れを少しでも共有してくださる方が増えれば、医療介護福祉などの場で働く人間は救われるな・・と思う今日この頃です。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?