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黒猫りんの物語世界2

2、美しすぎるお友達


「ただいま」
デイケアに通い始めてから三か月、すっかり秋の気配。
庭の楓が例年通り、赤く色づいている。
私はドアを開き、台所にいる母に挨拶すると、二階の自室に戻っていく。

運の問題なのだろうか。
それとも自らの因縁なのだろうか。
生まれつきの宿命なのだろうか。心が病気になってしまったあと、病院から退院してから居るべき場所が、それを受け入れてくれる環境かどうか。
私の家族は、病んだ私に歩み寄ってくれている。
そういう家庭もあるし、そうじゃない場合も多々ある。
だからという理由だけじゃないとは思うが、グループホームに入る人もいれば、一人暮らしを選ぶ人もいる。
私の父と母は、知り合いのクリスチャンから、心の病を抱えた当事者と家族が、話し合ったり、散歩したりする教会が主催する会を紹介され、そこで私の病気の情報を得、教えてくれたりもする。
この病は、本人も辛いが、家族もかなり戸惑うもの。
激しい急性期に、私は家族を巻き込んでしまったので、余計に心配をかけてしまっているのだろう。
しかし退院後は、薬が強いのもあるが、妄想や、幻覚や幻聴は、やってきてはいないのが現状。
家族もその点では、安心しているようだ。

火曜日はデイケアに向かう。
まだコートを羽織る必要こそないが、乾いた風が肌寒い。
紅葉で色づく民家の木々を愛でながら歩く。
街路樹のイチョウが並ぶ道は黄色の絨毯のようで、お気に入りだ。

デイケアに通う回数を、週に一回から増やせればいいのだが、体が辛い日が多くて、それ以上通うのはまだ難しいと感じている。
でも、体調がいい時には、家でじっとしていても仕方ないので、先生から、病院からも近い、地域生活支援センターというものを紹介された。
そこは、色んな人の憩いの場であるらしい。
デイケアと違うのは、がっちりとプログラムが組まれていなくて、日によってイベントがあるところもあるが、自由参加で、基本はかなり緩いところだと言う。 

デイケアが終わったあともしばらくやっているらしいので、今日帰りに寄ってみようと思う。
そうにゃん太に話すと、にゃん太もたまにそこに行っているらしく、一緒に来るという。
「はじめましては、不安にゃん? 俺がついてってやるにゃん」
「おお、気遣いありがとにゃん。じゃあ、よろしくにゃん」
デイケアでは、何人かお友達もできたけれど、一番の仲良しはこの猫人間にゃん太だった。
というか、どうも美香の件があって以来、私を気にいったらしく、デイケアの他の猫仲間も紹介してくれたり、ことあるごとに気にかけてくれている。

デイケアから徒歩十分。
外観は普通の民家なのだが、庭先に『メリイ』という木で作られたカフェでもあるかのような看板が出ている。
そこが、地域生活支援センターらしい。
ドアから中に入ると、煉瓦造りの壁に、アンティーク調の家具が並んでいて、ふかふかに見えるソファの前には大画面のテレビがあり、部屋の真ん中の古風なテーブルの上には、最新のコーヒーサーバーがあった。
デイケアの空間の半分くらいの大きさで、よく手入れされた観葉植物があちこちに配置されている。
全体は心が落ち着くようなトーンで、この空間にいるだけで癒しに繋がるように、こだわりがあるのがわかる。
「素敵な場所でしょ?」
見渡して感動していた私に、モデルや芸能人にも負けない色白で背の高い、超絶美人が声をかけてきた。
「はい」
ふんわりとした長い髪、感受性の強そうな潤んだ瞳に長い睫、色白で肌はなめらか。
整った目鼻立ち。スタイルも抜群で、ほっそりとした長い手足。
袖にフリルのついた女性らしい緑のワンピースが良く似合っている。
私はその綺麗さに驚きすぎて、つい時間をかけてその美人を眺めてしまった。
「そんなに見つめられると、照れるのだけど?」
「ああ、ごめんなさい。こんなに綺麗な人、見たことなくて」
「まあ! 正直ね」
麗しい微笑を私に向けてくる。私はつい真っ赤になってしまう。
そこへにゃん太が私を庇うように前に出た。
「でたにゃん、『メリイ』の主、奏子にゃん!」
「あら久しぶりね、猫おじさん」
にゃん太はむかっとして、
「おじさんって言うなってば。毎回そう言ってるだろにゃん」
「見た目の感想を述べてるだけよ」
「くそう、口の悪いおばちゃんだにゃん」
「――おばちゃん??」
睨まれ、にゃん太は私の背後に隠れた。
美人の一睨みは思う以上に恐ろしい。
殺気すら感じる。
にゃん太は私にこっそり囁く。
「奏子は三十六才だにゃん」
「ええーっ!」
嘘だ。
二十歳くらいにしか見えない。
「きっと人の生血でも吸ってるにゃんよ」
にゃん太がひそひそささやくので、私も声を低くした。
「シーッ! あまり失礼なこと言うと、また睨まれるにゃん。怖いにゃん」
「それはそうだにゃん」
私たちは顔を見合わせ、ぶるぶると震える。
「どんなに小声で話したって、とてつもなく失礼なことを言ってるのは、わかっちゃうわよ。私を敵に回したくなければ、さっさと謝りなさい」
大声でもないのにすごいど迫力で、私もにゃん太も、即座に頭を下げて謝った。
「さすがに失礼なことをいったにゃん。ごめんにゃん」
「傷つけてしまっていたら、ごめんなさい」
「まあ、冗談だってのはわかるから、許してあげましょう。二人とも顔をあげて」
眉根を寄せて、仕方ないわねと、私には弱く、にゃん太には強く、でこピンする。
「痛たたたっにゃん。奏子、まだ全然怒ってるにゃん。許す気なんかなかったにゃん」
にゃん太は不満そうだ。
「あはは。まあ、にゃん太も悪いにゃん。女性の前では、ああ言うのは基本禁止にゃんよ」
「くうう。女性という生き物は、俺たち猫と違って面倒だにゃんねー」
いや、私も女性なんだけど。
にゃん太にとっては猫なのか。
奏子という名前らしい美女は、にゃん太を無視して私に笑いかけ、白魚のように澄んできめ細かい肌のすべっとした手で、私の手をとって、
「はじめましての子よね? まずはメンバー登録しないとね」
テーブルの方へ連れていき、籐でできた椅子に座るよう促した。
「秋おばさん、はじめましての子が来ました。登録お願い」
秋おばさん呼ばれた、親切そうなおばさんが、記入用紙を手に、部屋の奥に続いている事務室から出てきた。
私はそこでメンバー登録を済ませた。
「この素敵な部屋の雰囲気は、秋おばさん――所長さんの趣味なの」
「とっても落ち着きがあって、どこか懐かしい感じがして、居心地がいいですね」
私が言うと、秋おばさんは、照れながら事務室に戻っていった。
奏子さんは私を立たせ、手を叩いて、部屋にいるメンバーの注意を向けさせた。
「みんな、はじめましての子が来たから、これから挨拶に回ります。よろしくね」
部屋には四人ほどのメンバーがいて、パソコンをいじったり、テレビを見ていたり、カードゲームをしていた。
奏子さんは私を、その一人一人に紹介し、よろしくねと、ほほ笑んんだ。
その笑顔のあまりの麗しさに、みんな同じようにほほ笑んで応じる。
すごい力だ。私はその現象を『奏子さんマジック』と、心で名付けた。
あますことなくマジックを行ったあと、私と奏子さんはにゃん太の元に戻ってきた。
「あら、まだいたの?」
「その物言いは、ひどいにゃん。あんまりにゃん」
「お生憎様。私をおばちゃん呼ばわりした人間は、寂しい末路を辿ることになるって決まっているのよ」
奏子さんはさっきのにゃん太の言動を、相当、根に持っているようだ。
「ううう。きっちり謝ったじゃないかにゃん」
「土下座して、千回くらいごめんなさいって言ったら、許してあげる」
「無茶にゃん。嫌にゃん」
にゃん太はぶんぶんと首を振って泣きそうになる。
可哀想になったので、私は土下座ではないが、深々と頭を下げた。
「奏子さん、お願いです。にゃん太を許してあげてくださいっ」
「まあ!」
奏子さんは、驚いて口元に手を添える。
「―――にゃん太に何か、弱みでも握られているの?」
「いえいえいえ。そんなんじゃなくて、猫仲間のにゃん太が、奏子さんを怒らせたままだったら、私も気まずいですし」
「そう。あなた、優しいのね」
なぜか寂しそうな、憂いを秘めた目を伏せて言った。
「お友達想いっていいわ。にゃん太が羨ましい。ううん、妬ましい」
「りんにゃん、今度は俺、妬まれたにゃんよ」
涙目のにゃん太はさておき、奏子さんがあまりに孤独に満ちた、影の濃い表情を隠すように俯いているので、私は心配になる。
「あの――奏子さん。よかったら猫仲間に入りませんか?」
私は名案だと思ったのだが、
「嫌です」
「絶対だめにゃん」
二人から即座に、完全拒否された。
でもそのあと、奏子さんは不意に笑ってくれた。
よかった。
私も笑った。
「じゃあこうしましょう。あなたは――えーと、りんちゃん?」
「はい」
「りんちゃん、今から、私のお友達になってください」
ガタガタガタッと、周囲から音がした。
どうも聞き耳を立てていたメンバーの方々が、転んだり立ち上がったりした音のようだ。
みなさん、かなり動揺している。
「駄目にゃん!」
にゃん太が止めに入る。
「なんでにゃん? 私常々思っているにゃん。美人に悪い人はいないって。超絶美人な友人なんて素敵にゃん」
「りんにゃん、それは大きな間違いだと思うにゃんよ。すっごく大雑把な決めつけにゃん」
「経験論にゃん」
「どんな経験を積んできたら、そうなるにゃん」
私はふと、にゃん太の元妻も美人だったことを思い出した。
「ごめんにゃん太。例外もあるかもしれないけど。――奏子さんは大丈夫にゃん!」
「俺のでこピンされたあとを、よく見るにゃん」
「それはにゃん太も、よくなかったにゃん」
私たちのやり取りに、奏子さんはまた笑っている。
うん。決めた。
私はこの美女の笑顔を守るために、お友達を頑張ろうと。
いや、お友達は頑張るものではないな。一緒に泣いたり笑ったり、できたらそれでいいのだよな。
「奏子さん、よろしくお願いします」
私が手を差し出すと、眩しいものでも見るように奏子さんは目を細め、白い手で握ってくれた。
「よろしくね」
それから私は、デイケアのない日で、体調がよい時はメリイに顔を出した。木曜と日曜の休業日以外は、奏子さんは毎日来ている。
皆に慕われていること、悩みや諸々の話を相談される役目のスタッフ以上に、相談役として見られていること。
まさに主のようだ。
みんな彼女と知り合うと、その笑顔に、触れていたくなるのかもしれない。
天使とか菩薩とか、そういう何かに近い。
しかし、私は推測する。
それじゃ、奏子さんと対等な関係の友人が、できにくいのではないかと。
ふとした瞬間、寂しそうな目になるのを、私は見逃さかなった。
相談を受けるというのは、ただ愚痴を聞くの以上に頭と心を使うものだし、苦しい、悲しい、寂しい、どうしようもない、そういうものを抱えている人が多い場所なので、想像以上に大変なことだろう。
だから私は、ほんとにちゃんと友達になれるように、他の人のように彼女の魅力ある笑顔を求める前に、自分から笑いかけるよう心掛けた。
そして相談するのではなく、できるだけ奏子さんの話を聞くようにした。
奏子さんはいるだけで人をほっとさせる力があるが、私にだって、彼女の寂しさを晴らす力があるはず。
そういう努力は惜しまずにいたい。

私の思いは通じたか、奏子さんは私を見つけると、嬉しそうに傍に来てくれるようになった。
ある日、奏子さんは、言うのが恥ずかしそうに、小声で言った。
「りんちゃん、もしよかったら私たち、お友達同士らしいこと、してみない? 例えば、一緒に海に行くとか、一緒にカフェに行くとか、もし具合が良くなったら、一緒に海外旅行とか」
「はい。ただお金がないから、海外旅行だけは無理です」
「お金なら私が出してあげるわ」
「ええええ!」
意地汚くも、つい期待に満ちてしてしまった。
憧れの海外旅行。
しかし私は即座に、煩悩を断ち切る。
「あ、いえ、いけません。友達にそんなことさせちゃ、友達の名がすたりますからっ」
「私、お金だけは余るくらいあるのよ」
「そう、なんですか。でも、それは奏子さんのために使ってください」
「うふふ、律儀なのね、りんちゃん」
どうやら私の答えは、奏子さんを喜ばせたらしい。
「お金目当てで私に近づく人もいるのよ」
そうなのか。お金のない私には、経験のないこと。
でも、それはひどいなと思う。
奏子さん、傷ついただろうな。
私が顔を曇らせると、奏子さんは微笑んだ。
「りんちゃんといると、安心するわ」
「それは光栄!」
私は張り切って答えた。
「ふふ。あなたって、面白い子ね」
嬉しそうな奏子さんを見ていると、私も嬉しくなる。
「あ、そうだ。いいこと思いついたわ!」
奏子さんは悪戯っぽく片目をつぶる。
「お泊り会!」
「え?」
「私ね、小学校のころ、お友達の一人が家のお泊り会に招待してくれたのだけど、両親に反対されて、結局いけなかったの。そのリベンジよ。今度私のおうちに、泊まりにいらっしゃい。一緒に夕飯をとったり、映画見たり、眠くなるまでいっぱいお話をして、楽しくやりましょう」
「ええっ。いいんですか?」
「いいも何も、私がそうしたいのよ。小さな家だけど」
「じゃあ、ぜひ!」
私は喜んで答えた。

数日後、デイケアの帰りに、そのまま二人で奏子さんのおうちへと向かう。
ついにお泊り会の日がやってきたのだ。
どんな家なのだろうか。
想像していると緊張してくる。
奏子さんの家はデイケアから、駅一つ分離れたところにある。
私はリュックにいろいろ詰めてきたので、背中が結構重い。
吹き抜ける風が冬の近さを感じせる、駅のホームで電車を待つ。
都会の宵の薄く青い空は、星もまばらだ。
輝く大きな十六夜の月だけが、目立っている。
「うちに誰かを呼んだのは、りんちゃんが初めてよ」
奏子さんは、さらっと言った。
「ええっ、本当ですか?」
「私にはお友達、沢山いるわけじゃないし。一緒にいて気が楽なのは、りんちゃんが初めてなのよね」
「えへへ。嬉しいです」
そんな風に言われて、私は心が温まる。
電車が来て、次の駅を降り、徒歩五分の高級住宅街の一角が、奏子さんのおうちだった。
平屋で、シンプルな造りにも関わらず気品のある一軒家。
白い壁に、白い扉。
庭はよく手入れされていて、今はとげだけのバラの花があちこちに植えられている。咲いたら相当ゴージャスだろう。
「家と庭の手入れや、お料理は、私のいない間に、家政婦さんがやってくれてるのよ」
「へえ! 家政婦さん」
私は間抜けな受け答えしかできなかった。
奏子さんは、お金持ちなのだなあ。
玄関から家に入ると、大きな生け花が迎えてくれた。
ピンクのガーベラと小さな白いカスミソウがふんわり優しい気持ちにしてくれる。
奏子さんもその出来栄えに驚いていた。
「今日はお友達がくるので、お掃除に気合いを入れてくださいって頼んだんだけど、まさかこんな花まで。張り切ってくれたのね」
くすくすと笑う。
「きれいですね。この家の雰囲気によく映えてます」
「あら、ありがとう」
そうして、私は居間にとおされた。
室内はよく、暖房で温められていた。
広くはないが、白と淡いピンクで統一された、可愛らしい部屋だ。
ここにもピンクのガーベラが花瓶に飾られていた。
アイボリーのソファに座ると、その座り心地があまりにもよくて、高いものなのだろうなと推測する。
「ちょっと待っててね。私、色々準備するから」
「はい」
五分くらい待つと、過ごしやすそうな部屋着に着替えた奏子さんが戻ってきた。
そして私には見えてしまった。
薄絹で隠れている奏子さんの腕に、軽くカミソリで傷つけた跡がいくつもあるのが。
こういうのは、見ないふりをしたほうがいいのだろうか。
挙動不審に陥った私に、奏子さんは努めて明るい声をかけてくれる。
「ごめんなさい。こんな服になったから、私の秘密、見えちゃったのね」
「その、すみません」
「りんちゃんは悪くないわ。私いつも通り着替えてしまって。この腕のことなんかすっかり失念してた」
「痛そうです」
「痛くないのよ。薄皮一枚以上は深く傷つけてないから。あまり、こういうことはしないほうがいいってわかってても、すると気持ちがすっきりするから、つい、ね」
そのようなもの、なのか。
目頭が熱くなる。
なんとも痛ましく、言葉もない。
「りんちゃんは、私のために、泣いたり笑ったり、忙しいわね」
奏子さんは、私の隣に座った。
「私ね、家に帰ると一人きりなのよ」
私は黙って続きを待つ。
「家族はお金持ちでね。私のための小さな一軒家を与えて、そこに住むように言われてね。結局、家族の誰も、私の病を受け入れられなくて、病院任せで。もう、何年も会っていないの」
奏子さんは立ちあがり、隣の部屋から水が入ったコップを二つ持ってきて、ひとつを私に手渡した。
「はじめてうつ病の症状が少し出た段階で、精神科に連れていかれてね。沢山の薬を処方されて」
水を一気に飲んで、ふうっとため息をつく。
「兄も東大を出て役人をしていたり、とにかくみんなエリート家族でねえ。私は落ちこぼれで。――誰も、私が心の病に罹ったことを受け入れてくれなかった。どうやって世間からそのことを隠そうかやっきになってた」
奏子さんは俯いた。
「親族に一人も味方がいないって、寂しいことよ。でもまあ、食べていくには十分な仕送りと、住む家があるだけ私は相当恵まれているってのは、わかるのよ。でもね。それでもね。高望みしてしまう。両親や兄弟の誰でもいいから、一回でいいから、私に歩みよってくれたらなって」
私は、持ってきたリュックから、缶のカクテルを取り出した。
こんなものは、奏子さんは飲んだことがないのではと思って、一緒に飲もうと画策していたのだ。
ぷしゅっと音を立ててあけると、奏子さんに手渡す。
「お酒です」
奏子さんは受け取るなり、勢いよく飲み干した。
「家族がそんなだから、私の病気は治らないのよ。病を得る前からそう。優秀じゃない私はどこにいても陰の身だった。笑い合う家族をどこか遠目に見てた。幼い頃や、成長過程で、家族から無視され続けるのは、とっても辛い。心が耐え切れなくなって病になるくらいに、ね」
「奏子さん」
あらあら、と、奏子さんはまた私の隣に座って、私の頭を撫でた。
「なんであなたが泣くの?」
「悲しいからです」
「うふふ。変な子ね。私は平気なのに。これ、美味しいお酒ね。もう一個ない?」
「味違いの他のカクテルなら、いくつか」
「じゃあそれを試してみましょう?」
奏子さんはヤケを起こしてお酒を飲み、私は泣きながらお酒を飲み、酒を呑むだけでせっかくのお泊りが終わりそうだったので、
「お腹が空きました」
「そういえば、夕飯、準備したままだったわ。これからダイニングキッチンで、少し遅い夕食にしましょう」
「はいっ」
私は喜んで、ダイニングキッチンに移動する。
鳥のから揚げ、ピザ、シーザーサラダ、オレンジジュースなどが卓上にあって、レンジで温めなおしてもらった。
さすが奏子さんに選ばれた家政婦さんの作った料理なので、家庭の味というよりプロの味がした。
ご飯を食べると二人とも落ち着いて、他愛もない会話をし、奏子さんお気に入りの映画を見たり、私の持ってきたテレビゲームをしてみたり、いろいろしているうちに、空が白み始めたので、寝ることにした。
奏子さんの部屋のベッドの隣に、私の蒲団も敷いてあって、寝具に入るなり、お互い即、深い眠りについた。
翌朝は、気が付くと昼を過ぎていて、二人笑いながら目を覚ました。
奏子さんはよほど楽しかったのか、帰路につこうとしている私に言った。
「ねえ、よかったら、また近いうちに家に遊びに来ない?」
「喜んで!」
私は心からそう答えた。

帰り道、自分を傷つけずにいられない孤独を思った。
私は、帰れば「お帰りなさい」と言ってくれる人がいる。
それはけして、当たり前ではないのだと。
両親から、兄妹から、親戚から、ご近所から。
いないように、見ないように、隠されているがごとく振る舞われたらただの辛さではないだろう。
何より心に怪我を負っている病気である身ゆえに、一人ではとても、耐えられそうにない。
だからきっと、地域生活支援センターのような居場所が、私たちには必要なのだろう。
奏子さんは、それを知っていて、あの場所では誰も孤独にならないで済むように、誰に対しても、優しく微笑み続けているのではないか。
辛いからこそできることもある。
基本的に、心の病を得てしまった人は、ひどく優しい。
嫌というほど苦しんでいるから、悲しんでいるから、周りに対しては、自然とそういう心が出るのかもしれない。
心が病になるのは、悪いことばかりでは、ないのだ。
私はそう信じたい

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