【日記】セカンドレイプとメンタルヘルス
性暴力について考える時、友達や家族やパートナーや職場の人から、そうと自覚せずにセカンドレイプを受けてきたな、と思う。
逆に、身近な性暴力サバイバー(※性暴力を受けた人、そこから生き延びた人)との間でも、セカンドレイプ発言をしたり、されたりしていたと思う。
だから「助言」や「意見」って、難しいんだよね、といつも思う。そして、職場でも趣味の場でも、セクハラや性暴力について軽率な冗談を言わない男性の方が少なかった。
普通に高いところの物をとってくれたり、開けられない蓋を開けてくれたり、物を貸してくれたり、嫌いになれない人たちでも、そういう発言を聞くと、不信感を持ってしまうこともあった。
同性の友人と話していても「そんな男性ばかりじゃないよ」と言われた。勿論全員が直接そうしたことをするのではないのだと思う。
それでも泣き寝入りが多いことも考えたら、表沙汰になっているのは氷山の一角で、身近なこととして受け止めにくいのではないかい。
私の周りにも言葉でのセクハラや、同意なく胸を触られたなどの体験をしている人の方が圧倒的に多い。中には、カミングアウトしたくない人も、被害を自覚できない人もいる。そういう状況だと、そして性暴力の影響を充分に理解していないと、つい「当事者や本人の対処の問題」としてしまいがちなのだと思う。
それは悪意がなくても、例え善意でも「セクハラや性暴力を行った側ではなく、それを受けたあなたの対処が悪い」「あなたは性暴力を行った男性より迷惑で、理性がない、異常な存在」というメッセージとして伝わってしまう。
医療や福祉関係者でも、自分の差別感や偏見を自戒するトレーニングを受けていないと、自覚なくそうした言葉で、更にトラウマを与えてしまうことがある。
専門家でも、不用意な言葉で尊厳を傷つけ、後遺症を悪化させてしまうことはあるから、身近な家族や友人やパートナーなら、尚更そうしたことも起きてしまうのかもしれない、
そしてセカンドレイプしている時、私たちは、無自覚でも多数派になりがちであること。
それって被害を表沙汰にできない場合、加害者は全く批判されず、それを受けた側が批判される構造を生み出す。
そういう価値観になることも、人格の問題や自己責任とまで言えないけど、そんな言葉に触れると感情的になってしまうことが、多かった。
そうした社会構造の中で生きていることを身近な課題として捉えたり、知識を身に着けたり、自分の人権感覚を捉えなおしつつ、心をケアすることが安全な人間関係を築ける可能性に繋がるといいと思う。
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