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【日記】利権より生存権

多すぎる便利やお金
明るすぎるビルの灯り
スポーツの祭典なんかより
あなたが生きていることを
望むから

【詩】je te le donneraiより

この詩のこの部分は、オリンピックの談合や、多額の裏金や原発で他人の生命と引き換えに維持される都会の灯りより、大事な人が生きているがいい、と思って書いた。利権に走るより生存権を保障して欲しいという意味で書いた。


だけど、友人はこの「多すぎる便利やお金」の便利をSNSやYouTube、お金を生活保護だと思ったようだ。そして、お金が悪いという文脈で捉えたみたい。人によっては、そういう解釈になるのか。うーん。

以前も何の脈略も、説明もなく「日本が終わりだ、と言う人は日本を終わらせたがってる人」とか平然と言って、少し失礼な印象を受けたのですが、今回もやっぱり困惑した。

受け手によって解釈が変わるのは当然なのだけど、’私にとっては全く想定外の解釈だった。お金の良い悪いなんて話はしていない。生活保護が多すぎるお金なんて、思ってない。

機能不全家庭で保護されず、治療に多額のお金を必要とするような環境に置かれる人が多いことや、国の制度の不備や無責任な対応を考えたら、もっと手厚くて、ハードルが低い生活補償があってもいいくらいだ。

政治家の約50億円もの政務調査費が政治資金収支報告書に不記載でも許されるのに、生活保護は申告期日を1日でも過ぎたら、即不正受給扱いなのは、不平等な差別だし、生活に直結する切実なことなのだと思う。国会議員は、居眠りしてても簡単にグリーン車やベンツに乗れるのに、自営業の生活保護受給者は、車が持てないのもね。


私がコロナ禍で保育士の実習前に心の治療を制限されたのに、オリンピックは許されていたのも、理不尽で、自分も含めた国民生活や生命よりも利権が優先されていると感じた。

そういう理不尽なことは「生きていれば大変なこともある」程度の解釈で、子どもや次世代にまで背負わせたらいけないことだし、自己責任論で片付けちゃいけないことだと思っている。

現在、目の前の出来事を楽しく過ごすことはよいと思う。戦争や災害が起こるような世界なら、尚更ささやかな幸せも、とても大事だ。

だけど、私は、自分の虐待を見逃してきた大人と、同じような人間には、なりたくないと思う。
子どもが好きなら、そんな子どもの笑顔が奪われないようにしたいと思っている。

次世代に差別とか貧困や暴力や戦争を引き継がないことを考えるためには、社会情勢に目を向けていくことも、考えたいし、自分の虐待を見逃して、原発を私たちの世代に残してた年長者と同じにはなりたくない。

そして、私は東京の地方に原発を押し付け、24時間フル稼働で便利な街にして、文化都市を気取る割に災害に弱かったり、食べ物が自給できない環境は、どんなにお金があっても、いざというときに、生存環境として厳しいと思う。

それを伝えるにはどんな表現にすればいいか、もう少し考えて詩を書く必要があると思った。そして、ネットでの言葉のやり取りだと齟齬も生まれやすいことも、しっかり考えていきたい。








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