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【音楽】KRAFTWERK「Radioactivity」

フジロックでのKRAFTWERKのパフォーマンスに炎上騒ぎ!何が問題なの?



フジロックでKRAFTWORKが演奏したRadioactivityの曲中て福島や原発事故についてメッセージを発信したことで炎上騒ぎになっているのを知った。

フジロックでのLIVEを観て私はKRAFTWERKの音楽に救われた気がしたが、やはり批判的な人は一定数いる。
そして反体制で、一部の企業の利権に都合の悪い表現が叩かれたり、タブー視されるのは、今回に限ったことじゃないのかもしれない。

RCサクセションと国策に見る、原発事故表現のタブー視


今回の炎上騒ぎで、RCサクセションが昔、原発をテーマに歌った曲を理由に、アルバム「COVERS」が発禁になったことを思い出した。原発事故やその影響についての表現は、国策で原発を推進してきた政府や企業の都合で、未だにタブー視されるんだろう。
福島の原発事故以降、復興庁は、原発事故について「風評払拭・リスクコミュニケーション強化戦略」に、約13億円を投じて、広告PRを行っている。更に福島県は、その広報予算を投じて、xの放射性物質を不安視するツイートを監視したり、安全性のPRを、電通や福島のマスコミを交えて行っている。そうした国策として一部の企業の利権を守る流れの中で、RCサクセションの音楽が発禁になったように、KRAFTWERKのパフォーマンスも批判されているように思えてならない。


KRAFTWERKは福島差別を助長しているのか?

KRAFTWERKが福島差別を助長しているという意見もあるけれど、そもそも原発を東京から遠く離れた僻地に作り、補助金と引き換えに原発事故のリスクを負わせたこと自体が、福島差別だと、私は思う。
福島の原発事故以降、浜通りなどに足繁く通っていた東京出身の友人と話をしたことがあるが「原発事故は仕方なかったんだよ。止めようがなかったんだよ。」とあっさりと口にしていた。
自分が東京で電力を消費して、福島に原発のリスクを背負わせて、尚且つその影響を見ることを、当事者として恐れているのではないか、と私は思った。「絆」や「復興」を唱えながら、本当は福島に負わせた傷を、差別してきた事実を矮小化して、なかったことにしたいのではないか、と感じた。
私が原発のない県に育ち、隣県の原発の電力で生きてきた加害者性に無自覚で思考停止に陥りがちなように、東京出身の彼女も、福島を差別してきた加害者性と向き合うことなく「絆」や「風評被害」という言葉で、当事者であることから逃げたのだと思う。そして、国策の責任を取りたくない政府が仕立てた美談に、無自覚に便乗していたのではないか。

ドイツと日本の対比から考える、原発問題の議論空気


ドイツの原発については、今回の炎上騒ぎの批判にもあるように、一進一退で反対する動きもあれば、再稼働を推進する政治家もいる。
ただ日本に比べると、ドイツは原発の是非や、その影響について国民がタブー視することなく、日常的に自由に議論できる風潮がある。そうした国民性のドイツでは、福島の原発事故に関する報道も、子どもたちに隠すことはない。

片や日本は、広島で初めて核兵器が使用され、アメリカを始めとする世界中で原子力が推進される契機となった国にも関わらず、その歴史が若い世代にまで充分伝えられて、自由に議論したり、意見する権利が保証されているとは言えない。

海や空は、国境を問わず繋がっているだから、原発事故や放射性物質の拡散は、世界中の誰にとっても、他人事ではない筈なのに、何故その危機感を自由に表現することがタブー視されるのだろう?

日本のミュージシャンがチェルノブイリ原発事故について歌ったことは、日本国内で批判されることはないのに、ドイツのミュージシャンが福島第一原発事故を題材として取り上げると批判される風潮は、原発事故の影響について国の体裁や利害ばかり考えていて、本質を見ていないと思った。
















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