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しんどさの塊を抱えて生きる

私は市役所勤務の地方公務員として働いている。
大学院卒業後、2019年に入庁し、現在4年目というところだ。

今の私の心境はというと、「とにかくしんどい」だ。
正確に言うと「仕事を辞めたい」になるが。

ただ、この「辞めたい」は公務員だから辞めたいのではなく、自分の人生に責任が持てていない自分を辞めたいことに起因している。


現役公務員や元公務員の方のブログを読んだことのある方は知っているかもしれないが、公務員=安定という認識はもはや幻想である。

雇用の安定という意味では確かに安定はしているが、正直精神的・肉体的には不安定な部分が大きいというのが、個人的な感覚だ。

いわゆる「お役所仕事」のイメージで入庁すると、現実とイメージの乖離で苦しむことになるのは間違いない。
もちろん、イメージどおりのゆるい部署があるのは否定しないが、公務員特有の「異動」があることを考えるとずっとゆるい部署にいることは不可能に近い。

また、仕事ができない・やる気のない人によっては非常にコスパのいい仕事が公務員という仕事でもある。
悲しいかな、仕事のできる優秀な公務員は仕事のできない公務員の代わりに色々な仕事を任されてしまうのである。
(強烈に仕事ができない人はほんの一部だが、そういう人に限ってそこそこ年齢も高いので必然的に給料が高い。新卒よりも仕事ができなくても給料が高い。ただ座ってるだけでも自分よりも2倍の給料をもらっている人間がいる。年功序列という制度なんてクソ食らえである。)



私は入庁して1年目で休職するというなかなかハードな公務員人生を送ってきた。一カ所目の部署はいわゆる「人事」であった。

仕事内容自体は面白く、頑張って勉強しつつ日々の仕事もこなしていたが、職場環境と人間関係が良くなかった。いわゆる役所のなかでも「ブラック部署」筆頭の部署であったのは間違いない。
サービス残業当たり前、毎日20時くらいまでは当たり前にいる、早く帰りづらい、残業の申請が出しづらい、隣の先輩のピリピリ感・監視されている感がすごい、業務量えげつない、「察して動け」な謎の空気、ヘビーな内容を取り扱う、経験年数や立場の近い若手職員がいない・・・のような状況だったので、新採で経験も浅く、強度HSPであるのも相まって、私は相当なストレスと向き合わなければならなかった。当時、電話が鳴るたび心臓が飛び跳ねていたぐらいである。(正直4年目になった今でも電話は苦手である。)

しかし、高ストレスな環境に置かれ、辛いながらも変なアドレナリンが出ていたのか、日々ずっと耐え忍んでいた。
が、ちょうど入庁して1年が立とうとしていた頃、適応障害で休職となってしまった。出勤しようとしても家の玄関から出られなくなってしまったのである。
その頃には心も身体もボロボロだった。わけもなく涙が止まらなかった。
私の脳裏には「強制終了」の文字。

その後約半年の休養を経て、再び元の部署へリハビリ出勤することとなるのだが、ここでもトラブルが多発し、私のメンタルはまたしても削られることとなる。結果として完全復帰を果たしたのは休職してか9ヶ月後のこととなる。
この時の詳細は別記事で書くとして、この時の経験から私は「いつでも辞めてやる!」と心に決めて職場に復帰したのであった。

現在3部署目、今年の4月から福祉関係の部署に配属された。公務員の仕事にもだいぶ慣れ、また1年目の功労か庁内の職員はほとんど顔と名前が一致し、話したことのある人ばかりのため、仕事もしやすく、休職に追いやられた時と比べたらはるかに良い状態であることは間違いない。

しかし、だ。

私はまたしても復帰後にずっと考えていたことに直面するのである。
「ずっとこのままでいいの?」



そもそも、私は元々公務員になりたくてなったわけではなかった。

文系大学院を卒業したことで、民間企業では就職口がないと踏んで公務員を選んだ。(理系と違って文系大学院は就職先の潰しがきかない。)

とにかく親を安心させたかったのと、6年間の都内への通学にくたびれた私は通勤時間の短い地元の市役所を就職先として選んだのである。

大学時代も就活をしていたが、行きたい企業なんかなかった。
なんなら、それまでは「働きたくないね~」と言っていたのに、就活の時期が迫ってきた途端「インターン、インターン」と口を揃えて言うようになってきた大学の同級生たちに嫌気がさしていたくらいだった。
正直、頭は固いしひねくれて変な反抗心をむき出しにしていた私より、周りに流されて動いていた級友たちの方がよっぽど行動的だったし、現実を見据えていたと思う。

結果、当時の私は就職の道ではなく、大学院に行く選択をし、自分の研究を2年間大学院で行うこととなった。大学院を選んだ時点で、「卒業したら公務員になろう」とただ漠然とそう思い描いていたことを覚えている。

ただ、大学院在学中、公務員試験を受けるために予備校に通っていたのだが、この時もすんなり公務員になろうと思えていたわけではなかった。

ずっと心の中で葛藤があったのだ。

本当はやりたいことがずっと心の中にあって、「それ」を目指したいのにそれができない。
当時の私は謎の体調不良に数年単位で悩まされていて、自分の身体や体力に自信がなく、家族もまたそんな私を心配していた。

自信はないけど口ではいっぱしのことを言うものだから、よく母と言い合いになったのを覚えている。
今思えば私が未熟だったにすぎないのだが、あの当時は母に対しても反抗期を迎えていたのだと思う。
母から見れば実力も行動も体力も伴っていない私が語る話が、ただの夢物語にしか聞こえなかったのだろうし、親として心配していたからこその発言であったことは今になってはよくわかる。

母はよく私のことを「吟遊詩人」だと言った。
今思えばすごく的確な表現で笑ってしまうのだが、当時の私にとっては母からの否定の言葉であることに間違いなく、とても憤慨していたし悲しかったし苦しかった。

身体も丈夫じゃない、実力も伴っていない、自信もない、それに奨学金の返済もあるから不安定な仕事は選べないんだ・・・・・・本当は私自身が一番痛いほどわかっていたことだった。

それでも心の中に生まれてしまった「夢」は、なかったことにはできない。
でも、現実は待ってくれないし、生きるために働いて、お金を稼がなければならない。
そんな常識が私の夢にそっと蓋をさせたのであった。


この記事の冒頭にあるイラストは私が描いたものである。
私は「九条なの」という名義で絵を描いている。

私はずっとずっと「イラストレーター」になりたかった。
思い返せば小学4年生くらいまでの夢は「イラストレーター」だった。
幼い頃から絵を描くのが本当に好きで、幼稚園の時は造形教室にも通っていた。今も祖父母の家には幼いころ私が描いた絵が沢山飾ってある。

小学生の時は図工の時間が大好きで、図工の時間で作った作品が優秀賞に選ばれてどこかの会場で展示されていたり、夏休みの宿題の防火ポスターは毎年優秀作品に選ばれて消防署の授賞式に参加したりしていた。

とにかく「作ること」が大好きな子どもだった。
小さい頃からゲームや漫画に触れていたからか、空想の世界が大好きで特に冒険譚やファンタジーが好きだった。

ゲーム三昧かと思いきや、外で友達と秘密基地を作ったり、ごっこ遊びや人形遊びをするのも大好きだった。

思えば何かを「創造する」のが好きだったんだなあと思う。

中学生になると部活と勉強ばっかりだったので、絵を描く時間は減ったのだが、それでも学校の行事とかイベントの時には絵を描く係になることが多かったし、何よりみんなの似顔絵を描くとすごく喜んでくれるのが嬉しかった。

私が絵を本格的に描き始めたのは高校を卒業する目前の頃である。
大学入学と同時に自分のPCを手に入れ、そのときにイラストソフトとペンタブを購入したのだ。

そこから今に至るまでの9年間、ずっと絵を描き続けてきた。
そもそも、大学生になるまでインターネット上で自分の絵を公開するなんてしたことがないし、初めてネットに自分の絵をあげたときはドキドキが止まらなかった。

でも、そこでいただいた暖かい言葉や交流のおかげで「絵を描いて誰かと共有することってとても素敵なことだな」と思うようになった。

大学入学後はTwitterが主流となってきた時期だったため、この頃からTwitter上でもイラストを投稿することを始める。
はじめはインターネット上にひとりぼっちだったはずなのに、気がつけば共通の作品やキャラクターが好きな人たちと繋がり、Twitterは私にとっての第2の居場所となっていた。(当時大学に居場所がなかったのもある)

とある作品に出会った時、私は初めての同人誌を作った。
そのときの経験が今の夢の原体験となったと言っても過言ではない。

初めてだらけで印刷所を決めるところからわけがわからないし、そもそも紙の種類がこんなにあると思っていなかったし、原稿を描くのはこんなに苦しくて楽しいとは思っていなかったし、何より自分が命を削ってゼロから生み出した漫画が1冊の冊子になったときは、言葉が出ないくらい嬉しかった。
私の頭の中にしかなかった物語が、こうして現実に形を持って目の前に存在している事実にただ震えた。

でも、この漫画が本当の命を宿すのは、誰かが手に取って読んでくれたときだ、そう思った。

そして同人誌即売会の当日。
即売会の開始の合図とともに、私のブースに真っ先に来てくれたのは、なんと私が好きなキャラクターのコスプレをしたお姉さんだったのだ。
私の冊子を1冊手に取ると、すごく嬉しそうな顔で私の大好きなキャラクターはこう言った。

「ずっと楽しみにしていたんです!」

この一言で私の人生は変わってしまった。
たった数百円、でも私がいなかったら存在しえなかった数百円。
ゼロから作り出したものに価値が宿ったことが嬉しくて嬉しくて仕方が無かった。

今思えば当時描いた漫画は画力も拙いし、改善点ばっかりだけど、それでも自分にとって忘れられないものになっている。


結局、その後数年間何度も何度も絵を描いて生きていくということに向き合ってきたけど、未だにその道に進めていないのは、ひとえに私の覚悟が足りないからに違いない。

大学生時代から胸の奥に大事にしまってきた夢だけど、母の前では堂々と話せなかった。自分に自信が無いから、虚勢を張って変な伝え方になってしまい、結果として母には反対をされることばかりだった。
それもそのはず、人生のほとんどを常識で敷かれたレールの上を歩いてきてしまっていたから、いざ外れようとすると猛烈な不安と自己嫌悪に苛まれ、自分が伝えたいことの10分の1も伝えられなかったのだから。

スキルマーケットで依頼を受けたこともある。
TwitterのDMで仕事をいただいたこともある。

それなのに。ゼロイチの経験をしてきたはずなのに。
私は世間の描く「安定の道」から抜け出すことができない。

その印に今も安定の象徴のような公務員として働き続けている。
ただ、私は公務員という仕事を悪く言うつもりは毛頭なくて、公務員という仕事はこの社会にはなくてはならない仕事であること、やりがいがある仕事でもあること、そして私自身公務員に向いていないわけではないことはわかっている。

そう、問題は私が今何をして生きているかではないのだ。
これから何をして生きていくかが問題なのだ。

ずっと自分の本心に蓋をし続けてきた結果、ずっと本心で生きられない苦しみに苛まれることになった。
自分に嘘をつくのってこんなに苦しいんだなって最近になってようやくわかるようになった。

正直、今は休職した1年目よりも毎日がしんどい。
毎日自分に嘘をついて感情に思考に蓋をして、目の前の与えられた仕事をこなしているからだ。
自分勝手なことは重々承知しているが、今すぐに辞められるのであれば、本当にすぐに逃げ出したい。

自分の本心に気がついて、それと向き合って、様々な人のブログや本を読んで、様々な価値観に触れて、私の世界はまた新たな見え方をしてきている。
頑張って自分と向き合おうと決めたのだ。

決めたけど、いや、気がついたからこそ今は毎日が辛い。
気がつかないフリをして、一生自分をだまし続けていた方がきっとこんな苦しい思いはしなかったんだろうと思うけど、でもそんなことしたら絶対に死ぬその瞬間に後悔するだろうなって思ったから・・・だから向き合おうと思った。

私の性格的に、きっと悩んで悩み抜いたすえに選んだ道に進んでも絶対に後悔しないと思うから、今は苦しいけどやっぱり自分の気持ちを大事にして生きていきたいと思うのだ。

植松努さんの「空想教室」を読んで、ひすいこたろうさんの「あした死ぬかもよ?」を読んで、ボロボロに泣きながら思ったのだ。
このままやりたいことをやらないで、自分と向き合わないで死にたくないと。
自分の可能性を自分くらいは信じてやろうよと。

だから私は文章を書く。
苦しさも糧に変えて突き進みたい。
甘えだと言う人もいるかもしれない。
でも、私はもう逃げたくないし、後悔して死にたくないのだ。

たった一度きりしかない人生、素直に生きないでどうすんだよって思ったんだ。ひねくれ者で臆病者の私だけど、頑張って自分を信じたいと思ったんだ。

イラストレーターになりたいのは事実だけど、それ以外にも色々と挑戦してみたいことは沢山ある。ブログもWEBデザインも動画編集も全部興味がある。

正直まだギリギリ20代だから、失敗しても失うものは少ないし、それにきっと失敗したとしても挑戦した経験はすべて糧になると思うから。

実際、当時は黒歴史だった大学時代も、しんどくて泣きながら修士論文を書き上げた大学院時代も、とりあえず社会人経験が欲しくてなった公務員も、私にとってはすべてかけがえのない経験で、後悔していることはひとつもない。

だから、今きっと私は私のために私に向き合わなければならないのだろう。人生の最期を笑顔で迎えるために。


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