魔法の言葉「ま、今は何も起きていないからいいや」
僕たちをいつも悩ませる、「過去の記憶」と「未来への不安」。
人間の悩みの9.5割くらいは、それが占めているのではないだろうか。
根ガティブ(根っからのネガティブ)な僕は、様々な方法でメンタルを安定させようと試行錯誤し、何とかおじさんになるまで生き残ってきた。
その方法のいくつかは、このnoteで紹介もしてきている。
僕も昔は、
過去の黒歴史を思い出して叫びたくなったり
昔された嫌なことを思い出して不快な気持ちになったり
将来への不安から頭を抱えたり
と、過去と未来に支配されることが多かった。
でも今は、そういう機会が随分と減った。
いや、機会自体はあんまり減っていないが、悩み続ける時間は減った。
「ちょっと悩んで、すぐ切り替える」
ということができるようになったのだ。
それはなぜか。
先述の記事にあるような試みに加えて、 魔法の言葉
を習得したからである。
○過去の反芻は自傷行為と一緒
誰もが一つや二つ持っている、大失敗をしてしまった過去や、嫌な思い出。
思い出すたびに心の古傷が疼く、屈辱的な記憶。
シャワーを浴びているときに思い出して突発的に叫んでしまったり、布団の中で思い出して眠れなくなったして、生活の質が低下する。
この
“思い出し恥ずかしがり”
や
“思い出し怒り”
は、誰もが経験することなのだろうが、あまりにも度が過ぎるようだともったいない。
だって、
実際に今失敗したり、屈辱的な目にあったりしたわけではないのに、それと同じくらいのダメージを負っている
のである。
自主的に傷ついた思い出を掘り起こし、再度同じように傷つく。
こんなもん、自傷行為と同じなのだ。
嫌な目にあったのは、その瞬間の一回きりであるはずだ。
その後は、その尖った記憶をカッターナイフのように心に突き付け、自分で繰り返し傷つけているのに過ぎない。
もったいないというか、馬鹿らしいのだ。
とはいえ、嫌な記憶というのは、気を抜くとすぐに蘇ってきやがる。
そんな時に、
と、唱えるのである。
そう、今は何も起きていないのだ。
そりゃ、過去には色々な酷い目に遭ったし、悔しい思いもした。
でも、今は何も起きていないのだ。
過去とか、自分の知らないところで行われていることとか、変えようがないことは、もう考えても仕方がない。
と自覚した瞬間に、
と言葉にする。これだけでいいのである。
重要なのは、「ま、」を省かないこと。
この「ま、」が、今まで続いているマイナス思考を途切れさせる効果を生む。
これだけで、自ら心に突き付けていたカッターナイフの刃を、カチカチと収納することができるのである。
○未来への不安は、想像妊娠と一緒
人間は、過去の記憶と同じく、未来への不安にも苛まれてしまう。
お金とか病気とか仕事とか、もう心配しようと思えば、人生のすべてを心配に捧げることも可能なのである。
嫌な過去を思い出すのが自傷行為なら、未来を不安に思うのは想像妊娠と同じだ。
想像妊娠とは、本当は妊娠していないのに、心身に妊娠の兆候が現れることである。
同じように、あまりにも未来を心配しすぎると、毛髪が抜けてしまったり、食欲不振や過食に陥ってしまったりと、まるで
“心配していた未来が現実になった”
のと同じくらいのダメージを負うことがある。
こういう時も、
と、唱えるといい。
だって、考えてもみてほしい。
過去の記憶については、過去とはいえ“実際に起きた出来事”だから、悩むのもまだわかる。
それに比べて、
未来については、本当に何も起きていない。
ただの予想であり、想像上のものである。
妖怪とかネッシーとかスカイフィッシュとか、そういうものと同じフォルダに入れてもいいくらいだ。
実際には何にも起きていないことで、心身にダメージを負うなんて、実にもったいない。
未来については、
「もし実際に起きた時の対策」
だけ準備しておいて、後はもうそれが現実となった時に考えりゃいい。
保険に入るとか、言い訳を考えておくとか、今の時点で準備できることだけをやって、あとは
と、余計な心配を打ち切るのだ。
だって、それが人間にできる唯一の未来への対処法であり、それ以外には何もできないのだから。
○今は今のことだけを考える
過去の記憶や未来への心配ごとを排除すると、心のスペースのほとんどが「過去」と「未来」に割かれていたことに気づく。
信じられないくらい、心に余裕が生まれるのだ。
余裕ができたら、風が優しいとか、雨のにおいがするとか、猫がかわいいとか、飯がうまいとか、 布団が気持ちいいとか、そういうことに脳のスペースを使うのだ。
それだけで、世界の見え方が全く変わる。
過去や未来に時間を割いている時間なんてないくらい、今、色々なことが起きているということを実感するだろう。
そして、今までそれらを全て見逃して、過去や未来にばかり囚われていたことに、愕然とするのだ。
ただ、僕は今こうやって
と言わんばかりに記事を書いているが、一日に何度も
と、唱えてしまっている。
この言葉を唱えているということは、それだけ過去や未来の出来事に苛まれているという証拠なのだ。
僕はまだまだ、過去の記憶や未来への心配から解放されてはいないわけだ。
恐らく、この言葉を唱えなくなった時こそ、本当に
と、思えた時なのだろう。
それができる日まで、僕はこの言葉に頼り切って、ストレスてんこ盛りの世界を生き抜いていってやろうと思っている。
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