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宝塚は他人事じゃないって話

宝塚歌劇団(以下、宝塚)が大変なことになっている。

団員のパワハラ自殺問題を受けての上層部の記者会見が、保身丸出しの稚拙な言い訳タイムだったため、劇団の根幹を揺るがすほどの大バッシングを受けているのである。

また、旧日本軍もびっくりしてしまうような、厳しすぎる上下関係やしきたりについても、次々と明るみに出ている。

ここで事件の内容そのものについて触れることはしないが、詳細を知れば知るほど気分が悪いし、亡くなった方や遺族の心中を考えるだけで、気持ちがどんよりとしてしまう。


ただ、残りの団員たちのことを考えると、これまた違う種類の、複雑な感情になるのだ。

彼女たちは、

憧れの宝塚に入るために予備校に通い、青春の全てを捧げて練習漬けの毎日を送る
→超超超狭き門の宝塚音楽学校にどうにか合格
→そこでガッチガチの上下関係を叩き込まれる
→血の涙を流しながら卒業
→劇団内も上下関係ガッチガチ。メンタルがズタズタになりながらもやっと舞台に立つ

↑こんな経歴を持つ人たちである。

彼女たちは、狭く特殊な「宝塚」という世界で長い時間を過ごしてきた。

たとえ一般社会で「非常識」とされるようなことでも、宝塚内で「常識」とされるのならば、それが絶対的な正解になってしまう。

そんな世界である。

仮にその考え方に違和感を抱いていたとしても、タカラジェンヌとして成功するためには、宝塚の考え方に適応していかなければならない。

だから、先輩たちに厳しく詰められても耐え続け、寝ずに働くのが「常識」になっていたのだろうし、自分たちも後輩に同じことをするのも、これまた「常識」になっていたのだろう。

擁護しているわけではない。

宝塚のこの問題は、「和を以て貴しとなす」とされている日本の社会に暮らす全員が、100%他人事とは言えないのではないか

という問題提起である。

同じく酷い職場環境とやばい記者会見で話題となったビッグモーターの例を見ればわかるが、
絶対的な上下関係が存在する閉鎖的な組織の中にいると、人間は正常な判断ができなくなることがある。

自分の立場が脅かされたり、連帯責任を負わされたり、

「他の人もみんなやっている」
「昔からこうすることになっている」

と言われたりすると、

明らかに社会のルールを逸脱しているような行動でも、やってしまうような生き物なのだ。

これに対して、

「いやいや、そんなおかしな組織に毒されるような人が悪いだけだよ」

と思う人がたくさんいるかもしれない。
そして、おそらくその感想は一つの正解なのだろう。

でも、そう思っている人自身も、現時点でおかしな組織に属していたり、異常な通例に毒されている可能性だってある。

たとえば、今勤めている職場はどうだろうか。

  • 就業時間外に掃除の時間を設けて、その間は無給扱いとしていたり

  • 「○時間に満たない残業は申請してはいけない」とか、「月に▲時間以上残業の申請をしてはいけない」というように、残業代の申請に制限が掛けられていたり

  • 売上ノルマ未達成分を、自爆営業で補わせたり

  • 「うちの会社の伝統だから」などと言って、飲み会で新人に一発芸をやらせたり

  • 有給休暇を取った次の日にお菓子を配ってあいさつ回りするのが通例になっていたり

上記のようなことをしていないだろうか。

これらだって、はっきり言って異常なことである。

もし、

「いや、休暇の翌日のお菓子は普通だろ」

などと思った人がいるのなら、それこそが典型的な「毒されている」事例だ。

「有給休暇」という、全員が等しく持っている権利を行使したことに対して、いちいちお礼を言って回るだけでも奇妙なのだ。

ましてや、自腹で返礼品を用意して配ることを「通例」や「常識」とするなんて、よくよく考えたら異常なのである。
※人が亡くなっている宝塚の例とお菓子配りを同列に扱っているわけではありません。
「内部にいると異常さに気付きにくい」「人は組織に毒される」ということへの説明例示ですので悪しからず。

他にも、地元の祭りなんかはどうだろうか。

  • 裸で殴り合って大怪我する人が出たり

  • 重たい木の棒や神輿に潰されて死ぬ人が出たり

  • 動物を殺したり

↑こんなことをするような奇祭が行われていないだろうか。
そして、それを「これは伝統だから」と、なぜか治外法権扱いをしていないだろうか。

その他、PTA、町内会、部活など、そのコミュニティに属している人からしたら当たり前のことになっている伝統や通例でも、
「外部から見たら異常なこと」
であるというものが、たくさんあるのだ。

このような伝統や通例を、

「そういうものか」

と受け入れて生きていく人もいれば、

「おかしいとは思うけれど、平穏に過ごすために我慢している」

という人もいる。

こうやって、人は波風を立てないように組織に馴染み、いつしかこの伝統や通例に慣れていく。

個々が慣れていくだけならまだしも、新しく入ってきた人がそれを拒否したり、伝統や通例を見直そうとする人が出てきたりすると、

「自分たちはやってきたのに」

という気持ちが生まれ、改革派に対して強いストレスを抱くようになる。

そのイライラをただぶつけるだけでは体裁が悪いもんだから、

「あの人は常識がない」
「普通はこうするでしょ」

というような大義名分を表に出して、イビり始めるのである。

このように、職場や日常生活にあるようなレベルの伝統や通例ですら、簡単に無くすことはできないのである。

宝塚で何かを変えていくというのは、極めて困難であっただろう。

もしかしたら、何かを変えようとした人もいたのかもしれないが、外部への発信すら制限されるコミュニティの中では、もみ消される可能性も高い。

旧ジャニーズや宝塚など、ここへ来て急速に、これまで触れることすら許されなかったような組織においても、「伝統」や「通例」を見直さざるを得ないような流れができてきた。

巨大な力に阻まれて今まで誰も手を加えられなかった聖域に、どんどんメスが入れられているのである。

これを一部の界隈だけの話にしてはいけない。
僕らみたいな末端の人間にとっても、非常にいい流れなのである。

様々な組織の「体質改善」や「伝統の見直し」等が繰り返しニュースなどで報じられていることから、世間一般の認識も少なからず変わってきている。

自分が所属するコミュニティにある、おかしな「伝統」や「通例」にNOの声を挙げるのは今なのだ。

「今まで当たり前だと思って諦めていたけれど、やっぱりこれはおかしいぞ」

というようなストレスの素を、組織から消し去る大チャンスがやってきているのである。

「伝統」を守ることで誰かが傷つくならば、そんな伝統には全く価値がない。

「うちは今までずっとこれでやってきたから」
「先輩たちもみんなこういう経験をしてきたから」

というような理由なんて、それで誰かが病んでしまうのだとしたら、なんの言い訳にもならない。

我々には、そんな「伝統」や「通例」を引き継がない権利があるし、後世に残さない責任がある。

風当たりが強くなるのは一瞬だし、それは狭いコミュニティの中だけの出来事だ。

長期的に見たら、

「あの時勇気を出して拒否をしてよかった」

と思うときが、必ず来るばずだ。

空気を読む必要なんてない。

自分が動くことで、その後ろには新しい空気の流れができるのだから。

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