見出し画像

ただそこに在りたいだけ。

今朝ふとnoteのTLを眺めてたら、ある1つの記事を見つけた。

この記事のテーマである1つの言葉にすごく感心してしまった。

そのライナーノーツにおいて、イーノはアンビエント・ミュージックを「as ignorable as it is interesting(興味深いが無視できる)」という言葉で定義した。BGMとして聞き流すこともできれば、集中して音に身を委ねることもできるという両義性がアンビエントに付与される。

https://note.com/shunfushimi/n/n49446f0bc788

この記事は、アンビエント・ミュージックについて記述されていたもので、素人の私にはすべてを理解できなかったが、
「as ignorable as it is interesting」という言葉がすごく心地いいなと感じた。
そしてこのnoteでは、引用した記事とは離れた内容になることをご了承頂きたい。
(とても素敵な文章で素人の私でも非常に面白く読めたので、ぜひチェックしてみてください。)

興味の対象

世の中には、無視するというか意識にも上らない事象もたくさんあるし、興味深い事象もたくさんある。
それらの違いは個人に帰属する。
A君にとってはお寿司っていうのが途轍もなく興味深い事象だが、B君にとっては食事をする際の選択肢でしかない。なんてことが当たり前にあるように思われる。
「YouTubeでよく見る動画のジャンルは?」という質問を渋谷でしたとしても、それなりに分別されると思う。

興味の対象が他人と一致する場合も生きていればたくさんある。
また、自分は関心がなかったが友人に勧められて関心を持ってしまったなんてこともざらにある。
さらに、昨日まで興味があったにもかかわらず、今では全然関心を示さないなんていうこともしばしば。
興味の対象というのは、共有することもできれば、移ろいやすく、非常に不安定な気がする。
身の回りのモノやコトがいつ興味の対象になるのかわからないことを考えると、意外と”無視をする”っていうことの方がコストかかるのかもしれない。

自分が興味の対象に没入するという感覚もあるが、
自分が他人の興味の対象になりたいという感覚も内蔵されているみたい。
SNSのインフルエンサー程ではなくても、例えば恋人や家族、友人関係などもその視点で一部説明できる気がする。
知的好奇心と自己顕示欲 だろうか。
個人的にはこの2つを内蔵している前提で生活しているので、この2つから外れるなんてことは考えられない。

この2つで社会との相互作用は起こっている気がしている。
自分の中にある興味の対象。
誰かにとっての興味の対象である自分。
これらを追いつつ追われつつ生きていく。
この2つに該当しないのが、無視する対象と言うのだろうか。

アンビエント


アンビエント(ambient)は、英語で「周囲の」、「環境の」という意味。

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

先ほどで示したのは、
私は、2つの欲求を前提に生活しているのではというもの。(私以外はどうだろうかわからないが。)

ただ、話が戻るが引用した記事で私が心地良さを感じた言葉、「as ignorable as it is interesting」。
また、引用元の記事で記述されていた「アンビエント・ミュージック」。
この2つのどんなところに私は惹かれたのだろうか。

興味深いが、無視できる。
環境としての音楽。

前提である2つの欲求に拮抗してくれそうだと期待しているからだろうか。

アンビエント・ミュージックは、けっして関心を払う対象ではなく、そこに在るだけ。
関心を払う対象はアンビエント・ミュージックがかかっている環境の中にある、ヒトやモノやコト。

私はそのようなある種内気な在り方に興味を抱いてしまったのかもしれない。
また、一般的には無視されるような対象に興味を抱いてしまうという危ない好奇心を持っているのかもしれない。
ただ、惹かれた。

ただそこに在りたいだけ。

冒頭で示したが、興味の対象は個人に帰属する。
2つの欲求である、知的好奇心・自己顕示欲も、誰かにとってはアンビエント・ミュージックのようなものである。
私がこのnoteの着地点にしたいのは、落合陽一さんがおっしゃっていた「みんな違ってみんなどうでもいい」というもの。

加えると、私はただそこに在りたいだけ。
自分の知的好奇心は社会に影響されるが、社会に寄りかかる訳ではない。(社会というのは、大衆。)
自分の自己顕示欲も同様。

自分がアンビエント・ミュージックであると認識することは、時として愚かな私を救ってくれるだろう。
という淡い期待を抱くことが出来た。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?