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storyteller

私は自分の過去を文章にするのが好きじゃないんですよね。
あ、あと人前で話すのも。

そんな奴がnoteなんかやりやがって。
なんていう気持ちをちっと抑えていただいて、
まぁこいつは何を言いたいのかっていうのを掴んでいただけるとありがたいもんです。

storyteller。
これ簡単に検索してみた。
そしたら、

https://www.collinsdictionary.com/dictionary/english/storyteller


ストーリーを作ったり、語ったりする人というのと同時に、
嘘つきという意味合いもあるみたい。
(ちなみにCambridge Dictionary含めたいくつかのページには噓つきという表記は見つけられなかった。)

Yuval Noah Harariの著作である「Sapiens: A Brief History of Humankind

の中で語られている、”Fiction(虚構)という認知的側面が人類の発展の中心にあったのでは。”、
というものをわざわざ引用してみれば、あらゆるdictionaryが示していた、storytellerの噓つきという文脈が薄く掴めてくるのではないかと思う。


この記事では別に、
人々の”語り”というものは虚構であり、それは記憶という儚いものを前提にしていて、そもそも記憶というのは、、★■〇▼§,,,
というのを書きたい訳ではないのを了承しておいてほしい。
この記事は、なぜ私が自分の過去を話したくないのか。という正直この記事を読んでいるあなたからしたらハチャメチャにどうでもいい命題を背負っている。
まぁこのどうでもよさが書いてる身分からしたら相当ありがたいのだけれども。


私のnoteはいつも前置きと脱線が多いことで有名だ。
だから結論を先に言う。
「超絶どうでもいいから」だ。

ど、どう?
さっきハチャメチャにどうでもいい命題を背負っている。というのを前振りと期待して読み進めた君。
恐らく今記事から抜けようとしたよね。
全然賢いよそれ。
まじでどうでもいいよね。
どうでもいいの入れ子構造だよね。

この理由が面倒なのは、あくまで”自分(私)の”過去 というか語りだな、それが好きじゃないだけというところなの。
他人の語りを聞くのは別に嫌いじゃないんだよ、てか飲み会とか自分とその他大勢の場とかだとそういう語りの積極性がある人がいると超助かるから、その場においてはなんなら好きなのよ。
まぁサシでも積極的な人は全然嬉しいけどね。(自分のターンが少なくて済むから)

ストーリーってさ、すごく心地いいじゃん聞いてたり読んだりしてて。スッと頭に入ってくるからさ。
まぁそれは複雑性を出来る限り切り取ってパッケージされたものだからっていう理由なんだけど。
んで、他人の語りが嫌いじゃない理由はそのパッケージされて出てきたものを題材に相手に質問していって、相手がどんな美化(編集)をして私の前にドヤ顔でその語りを持ってきたのかっていうのを探れるからなんだよ。
その切り取られた部分を加えていってあらゆる変数を用いて目の前の人がどんな人なのかを掴もうとするゲームっていうのが私にプログラムされてあるみたいで、そういう性格だからしょうがないんだけどマジでドン引きしないでほしい。

んで、他人の語りの嫌いじゃない理由はわかったけど、自分の語りが超絶どうでもいいと思うのはなんで?ってことなんだけど、
2つくらいパッと思いついたことがある。

1つ目は、あんまり”他人の話”を興味深く聞こうとする人がいないっていうこと。
これは限りなく私の偏見ではあるんだけど、割と小綺麗な場所とか行くとね、凄いのよ。自己顕示の濁流が。
これは皮肉でもなんでもなくて、素直に普通の現象だと思っている。だって、小さいころとか擦り傷程度でとりあえず大きな声出してた人が大半なんだよ?
自分が好きなものとか得意なことを追い続けるのだって、自分自身が満たされるからっていうのが大半じゃない?(利他的な振舞いも含めて)
まぁ、自分自身の感覚しか知覚できないっぽいから我々は。
そう考えると自己顕示っていうのを念頭に人付き合いするっていうのも別に変じゃない。
だからこそっていうのかな、あんまり”他人の話”って届かないんだよね。読書とかある種第三者的なポジションからだったらまぁまぁ届くと思うんだよ。
でも目の前にいる人の語りを聞いて、その人がどんな人かっていうのを語っていない側面の方からアプローチしようとニヤニヤしている人間なんてそんないないからね。
1つ目の理由をちょっとまとめると、消費されるコンテンツとしてそこまで価値(≒注目されない)がないから。っていう感じかな。


2つ目はね、自分っていうのは文脈依存的で論理学的な構築だけでは掴めないものだと思っているから、かな。
言葉を積み木みたくかつ論理的整合性を考慮しながら構築していくことってそんな難しくないじゃない?
だから実質からどんどん距離を離すことだってできるわけだ。
虚勢を張るっていうの?そんなことは簡単じゃん?
でもさその積み木ゲームじゃ表せない感覚って普段の日常の一瞬一瞬に詰まってる感じしない?
気温が高いんだけどふとしたタイミングで吹く冷たい風の感じとか、
すごく仕事のできる職場の方の後ろ髪がちょっと跳ねてる時に感じる謎の微笑ましい感じとか。
振り返ってみればたくさん出てくる些細な感覚っていうのを、言葉の積み木ゲームは表してくれてるだろうか。(今出した例も言語表現出来てるじゃん。と思ったあなた、かなりクリティカルな視点だと思うけど「クオリア」って調べてみるといいよ👍)
2つ目の理由をちょっとまとめると、”語る”ことの価値が私にとっては最優先事項ではないということかな。


いやー、どこの馬の骨か知らん奴の「自分語りが好きじゃない理由」という内容でこんな文字が敷き詰められていると考えると鳥肌止まりませんな。
2つ目の理由なんだけど、言葉の積み木ゲームが最優先事項ではないというだけで、それの重要性というのは私は尊重している。
実際noteで記事を投稿しているというのも私が普段考えていることを言語的に表現することで、頭の整理に繋がっているからね。
ただそれらの精密さの先に自分自身のやりたい表現があるのかというと現時点ではそれだけじゃないという風に認識しているから、2つ目の理由を引用して揚げ足取りしようと企むのはやめてくれ。泣いちゃうから。

ということで、これを読んでいるあなた。
私からするとあなたには”自分語り”をやめてほしくはないというのがこの記事の結語になるだろう。
だから、決してやめるな。続けてくれ。そして私にニヤニヤを供給し続けてくれ。これは私のエゴだ。
もし、こんな記事を通してあなたと一緒に考えたいテーマを提示してもいいのであれば、
自分自身の成長というか変化というのは、自分自身を外に語ることではなくて、外で感じたことを自分自身に語ってあげることでしか起きないんじゃないだろうかという点だ。
偉そうでごめん。私も今を頑張って生きている身分、一緒に考えていこう。

それじゃ、また。




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