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不自由な選択が故の儚さと美しさ

トロッコ問題、囚人のジレンマ、時限爆弾の赤と青のコードどっち切るか問題、今日の夕飯、etc
哲学するにも、アニメを見るにも、自分のお腹を満たすのにも、全て僕の目の前には”選択”がある。
”今”を含んだ直近のことにしか目がかけれないはずなのに、僕はちゃんと生きていて、どうやらちょいと昔から”僕”という存在はあったらしい。

でもちょっと待て。
嘘だろ。
今この瞬間認識できる”記憶”ってやつをフル動員しても、「なぜ今の僕が出来上がったのか」という問いに納得できる程の答えを見出せないのはなぜなんだ。

おいおい、僕の周りの同級生はスーツを着てパソコンのカメラに向かって、「私は学生時代、hogehoge,,,」とスラスラ言っているじゃないか。
この前地元の友人とお酒を飲んでた時に、
「お前は小学校、中学校の中で一番目立ってた”陽キャ”の長だったよな!」と言っていたじゃないか。

僕以外の人はあんなに流暢に言葉にしているじゃないか。
もしかして僕だけなのか。僕は”記憶”を失ってしまったのか?
なんなんだ。何が起こっているんだ一体。


僕は頑張っても”昨日の僕”くらいしか自分の”記憶”について正確に言葉にすることしか出来ない。
”それ以前の僕”なんてまったくわかんない。わかんないっていうのは断片的過ぎて確証が持てないという感覚的なもんなんだけど。
でも、”それ以前の僕”ってのは確かに存在はしてるはずなんだろう。急に生まれたとはさすがに考えられない。

そんで、今の僕の目の前にはとんでもないくらいの”選択”がある。
今こうやって、鼻あたりに顔のパーツをギュッと集めながらパソコンを見つめてタイピングしてることだって、そうしたいという選択をしたからなんだと思う。
そうしたいけど、それをしないという選択も出来たんだと思う。
じゃあ、なんで”タイピングする前の僕”は、タイピングをしないという選択をしなかったんだろう。
みたいなことを”タイピングしている僕”が考えてみる。
色々要因を挙げられるが、しっくりくるものは見当たらない。
まぁ、わかんないからだ。なぜタイピングをしないという選択をしなかったのかってことは。

常に自分の目の前にある”選択”っていうのを僕らはあたかも「無数の」という風に捉えているけども、
でもその「無数の」という風に捉えているときってのはその”選択”を選び終わってるんだよね。
「なぜその選択をしたのか」っていうヒーローインタビューは、事後なの。結果論的なのよいつも。
一日寝て起きて飯食って昼寝して、ネトフリみただけであっという間に夜になるみたいな地獄のような週末を過ごした後の月曜日に、
「なんであんな週末を過ごしてしまったんだ。あ、もしかしたら金曜日に金曜ロードショーを見終わった後にコンビニ行ってアイス買ってしまったところから始まっていたのかもしれない。
また、あの時hogehoge,,,」みたいに思うじゃん。
でも、それってもう”選択”し終えちゃってるのよ。だから、counter factualで色んなことを妄想出来ちゃう。
んで、選択をし終わった時点の自分が、選択する前の時点の自分に介入できる訳じゃないじゃん。エレンイェーガーじゃないんだし。


こうやって瞬間瞬間の”選択”は終わっていくし、その終わった足跡を見て僕らは反省の意も含めて”記憶”していくわけだ。でもその足跡をちゃんとそのまま受け入れられればいいけど、そうでないものも受け入れてしまってそうな気がしない?
そう考えると”記憶”ってそんな大層なものかね。

”選択した後の自分”は”選択する前の自分”に対して、色々文句言えるけどさ、
じゃあ、”選択する瞬間の自分”は誰に文句言えんの?


原子爆弾を実際に落とした爆撃機B29「エノラ・ゲイ」の乗組員はさ、上からの指示と太平洋戦争における戦況を踏まえての原子爆弾投下の意義と、実際にそういう指示で作戦通りのポジショニングを取ってるという状態と、様々な要因があったなかで、その”選択する瞬間”に「こんなこと馬鹿げている」って上に文句言えただろうか。

大好きなあの子に告白した瞬間の僕は、いつか別れるあの子となんで付き合ったんだ、って文句を言えただろうか。
言えたとしたら”誰に”言えただろうか。



日々、瞬間瞬間僕らは”選択”してる。でもその”選択”は本当に全て自由意思の名の下にあるのだろうか。
”選択する瞬間の自分”とコミュニケーションできるだろうか。
ヒーローインタビュー的に自らの”選択”による足跡を振り返るけど、それらを精細に語り続けるためにどれくらいのエネルギーが必要なんだろうか。
またその難しさを、それが故の”記憶”の不備さをどのくらい認識して僕らは語っているのだろうか。

僕には”選択”の上に成り立っている”僕”の”記憶”をそれなりの確度で担保してくれるものなんて持ち合わせていないが、
これからの僕は、今よりずっと多くの”選択”の上に、儚く美しい”記憶”の縁を型取っていくことだけは確からしく感じる。
「楽しい時間を過ごしたなぁ」と振り返れたとしても、その時間を共にした人やその中で起こった出来事の細かな部分はそぎ落とされていることだろう。
覚えておきたかった”選択”の足跡も少なくはないだろう。

バカボンのパパは言う。
「これでいいのだ!」
その不自由な”選択”を重ねた自分も、それによって型取った不備な”記憶”も、全てそれをそれと捉えてみる選択をしていこうじゃないか。



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