遠回りのあとで

note、おひさしぶりです。遅ればせながら、明けましておめでとうございます。
つぶやきではなくしっかりと記事を書くのは、1年ぶり以上かな。

何も発信もできずにいた間も、ごくたまにスキやフォローの通知があって、不思議だなぁ嬉しいなぁありがたいなぁと思っていました。

この中身は去年書いたはいいものの、やっぱり勇気が出なくて下書きに入れていたのを今日になって自分のことを自分の言葉で嘘偽りなく紡げる私が好きだったな...と思い出したので、もっかい向き合おうと投稿を決めました。

容易く語ることはできない話題のため長々としてしまいますが、もしお付き合いくださる方がいらっしゃいましたら、よろしくお願い致します。(そして本当にありがとうございます!!)

一昨年の12月、私は双極性障害(所謂、躁鬱と呼ばれているもの)の診断を受け、強制入院になりました。出先で意識なく暴れ、救護隊の保護を受け、救急車で遠くの精神科大病院に運ばれ、そのまま1週間かそれ以上目を覚ますことなく眠り続けていたそうです。

何重も鍵のかかった、布団と和式便器以外本当に何もない部屋に担架ごと運び込まれ、(院内を運ばれている間、勝手に身体が動いて、目の前はずっと天井だった景色だけ朧げに覚えているような)気がついたらクリスマスを迎えていました。カレンダーも時計もなくて、窓からさす光と一斉消灯とを繰り返す日々の中、動物園の動物にでもなったのかと思うほど「餌付け」のような食事をこなしていた毎日の病院食。
たった1日、いつもとちがったブルーベリーケーキにMerry Xmasと小さな紙が添えられていて、あぁそうなんだと気づく、それだけのクリスマス。

強い薬を飲んでいたので(飲まされていた、が正しい)最初のほうはずっと暴れていたとおもう、意味なく壁によじ登ったり、でんぐり返しをしていたり、病院から脱走を図ったり(←5人くらいの看護婦のおばさんに取り押さえられてふつうにぜんぜん無理だったけど)ずっと長い夢の中にいるのではないかと思っていて、これは大掛かりなドッキリで、推しが迎えに来てこの閉鎖病棟から出してくれるまでの辛抱なんだ、とおもってた。
でも毎日顔を合わせる担当看護師さんと話してるうちにだんだんそうじゃないって気がついて、「あの、、、わたしの病名ってなんなんですか?」と訊いたら「一応お医者さんは、双極性障害って言ってるよ」と。

「やっぱりそうですよね、リトグリの芹奈ちゃんと一緒だ、、、活動休止当時ネットでいっぱい調べて、もしかしたら私もそうなんじゃないかっておもったことあったんです、やっぱりそうだったんだ、あぁ、そうなんだ」と(もう既にぶっ壊れている頭とか心とか全部がもっと狂っちゃうんじゃないかというくらい)だばだばだばだば泣いて床にへたり込んで、息がうまくできなくて。
しばらくして看護師のお姉さんに「泣き疲れただろうから麦茶持ってくるね」と言われて落ち着いて、この日のあと、元気が一気になくなった殻っぽの私は、個室から大部屋へと移動許可がでました。これはかなり大きな一歩。

久々すぎてうまく足が動かせなくなっていて、看護師さん2人がかりで両腕を抱えられながら、病院を歩いた。コンタクトも入っていないし私物のメガネも手元に届いてなかったあの日、視力の悪い自分の目に映った病院の廊下は、ゾンビというか作り物の人間たちがコントロールされて歩いてるのかと思ったくらい異様な景色で、精神異常のある人の歩き方や動き方はこんなにも違うんだ、と知り怖くなった。

そして私は、人が変わったように「無」になり自我が無くなって、返事も言葉も小さくなったので、看護師さんには「別人になった?」と言われた。ベッドが大部屋になって、食事を入院患者のみなさんと一緒にとるようになった。

当時19歳だった私は比較的若い方で周りは年上の人が多かったのだけれど、新入りとして来た日の大部屋で「クールな子なんだね」「ねー!クールビューティって感じ!」とかなんとか話題にされていた。(おもしろ)そんなこと過去振り返って一度も言われたことがないのに。

もう入院生活を思い出そうとしても実は記憶が薄れてきていて、あまり覚えてないのだけれど普通に生きていくことができていたら絶対になかった経験が沢山だった。私の数日後に仲間になった高校生の女の子は(詳しくは書けないけれど)飛び降りてしまってたまたま命あったと語っていて、私の何倍も言葉数の多い気さくな子のように見えていたのに、少しづつ心がお互い開き始めた頃突然立ち止まって「ねぇ...抱きしめてもいい?」って。もちろん戸惑ったけど、色々あるもんねと思って、わたし何にもできないけど私なんかでよければ良いよ、と答えたら、ギュっと抱きついた彼女は静かに涙を流してた。あの子の名前を私は知らないし、顔も思い出せないけれど、きっとあのときのことだけは、この先忘れないだろうなと思う。

そうして丸1ヶ月病院で過ごして、毎日毎日担当看護師さんに帰りたい帰りたいってこぼして、退院出来たのは去年の1月13日。だから先週で退院から1年経ったってこと!やったー!!何事もなく1年間健やかにいられたのがうれしくて、13日は両親と鰻を食べました。


なにもない自分に一度なったけど、ゆっくり拾い集めて、踏み入れたことのないところの風もちょっとだけ受けて。失ったことを思い出すたびとことん落ち込んで、障害を持ったことが事実として消えてくれないわたしには未来が怖くて、もうぜんぶぜんぶ辛くて嫌だった(こともあった)。


「障害」はわたしの一部であって全部ではない、って考えができるようになってから見える世界がどんどん明るくなっていった。
だから今は結構好きな自分。

それに、いいことがなかったわけじゃない。

ずっとがむしゃら歩いてきた道を、引き返したり歩みを止めたりすることは、走ることよりむしろ難しくて、勇気がいる。
頑張らないことは恥ずかしいことだ、とか、頑張れない自分は醜くて情けないのだ、と思っていた時期がいちばんドン底でしんどかったし、勇気を出してSNSを開いてしまえば周りの同年代が1日1日着実に歩みを進めていることを実感した。比べない比べない!と思っても心の中でどうも止まっている自分に焦ってしまって、家族以外の人間と会いたくても会えなかったし、なにか話したくても話せなかった。

今ならわかる、頑張ってない(ようにみえる)人にもそれなりの覚悟があって、踠いている。

他人は、頑張らなくていいよとか優しく声を掛けてくれるかもしれないけれど、それでもわたしは、また頑張れるようになって良かった、と思えるようになりたいなとおもってしまう。
だって確実に、頑張ってる自分の方がかっこよく見えてしまうから。

ある方のインタビュー記事で、「自分の築き上げたものや幸せだと思っていたもの、たとえそのすべてが崩れたように感じても、それを新たに上書きしていくのが人生なのかなという気づき」という言葉があった。

わたしの中に生まれた気づきも、きっとこういうことなのかもしれない。↓記事はこちら、稲垣吾郎さんの言葉よりお借りしました。

最近は、もう1人で歩くのも怖くないなとぼんやりおもいながら人混みをスタスタ歩けるようになった。それでもやっぱり身体は正直で、帰ってきてうっかりうたた寝するし、次の日の昼すぎまで目覚めないで寝てしまうようなことは、まぁあるんだけど。それもまた。

今は月1の通院と躁を抑える薬を毎日朝夜2回飲むことで何とかなっている。いつもと違うことをしたり予定を詰め込みすぎたりすると危ないので、バランスを常に気をつけて生活するようにしていて。だからそういう意味では出来ることは少なくなってしまったかもしれない。でも別に自分ができる範囲でがんばることに不便さを感じることは今のところ無い。
しんどい思いをしてまでやりたいことはもうないし、居場所さえあればそれでいい。
将来像という意味での夢は崩れて見えなくなったけど、まただんだん手繰り寄せることができはじめていて、好きなもの、大切にしてる気持ち、やってみたい純粋なあこがれ、そういう自分の中のキラキラを零れ落ちないように掬いあげては照らしていけるようにしたい。というか、してやる。

みつけるとうれしくなっちゃう南天(これは祖父のお庭)


まだまだ私には謝らなければならない人も、話さなきゃなのに話せていない人もいる。本当に少しづつ少しづつ整理をつけて「ごめんね」と「ありがとう」を伝えられるようになりたい。


そして!これからも!音楽や映画、小説の中の誰かの言葉、ラジオ、YouTube、雑誌のインタビュー、そういういろいろに救われる自分を否定することなく大事にする。これは絶対。

そんな私のことを大事にしてくれる友達、環境を自分なりに大切にする。そんな20歳を生きていきます、よし!これだ!きまり。

ここまでお付き合い頂きありがとうございました。皆さん、おひとりおひとり、ご自愛を。

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