「揺り戻しに備えて」(短歌研究2023年7月号)
短歌研究4月号の特集「短歌の場でのハラスメントを考える」について考える。特集についての、ネットでの反応は(それこそ刊行前から)追っていたが、短歌研究誌の「ネットに表出しない読者層」にはどう届いたのだろうか。総合誌でこの特集が組まれたことにより具体的な問題に初めて触れた層もいるだろう。継続的な企画としても、広範な反応をピックアップする必要がある。もちろん、ネットに触れている人間であれば正しい知見を持って適切に行動できるのかというと全くそんなことはないので、だからこそ現段階のトピックを誌面でまとめておくことの重要性も同時に言える。
さまざまな意見が展開される中で、多くの寄稿者が想定される(というより実際にあったであろう)バックラッシュに対応する形で論を述べている。
いずれもハラスメントについて考える時に、容易に想像しうる反応であり、実際にそのような発言を直接聞いたこともある。これらの言いようは、何がハラスメントや差別的な言動に相当するかの判断ができないため、現在のポリコレ的な風潮に対して漠然と恐れている、というケースが大半なのではないだろうか。
例えば、二年前に収録された座談会での、栗木京子の発言。
ハラスメントは相手が存在する話なので、ヒヤヒヤしながら(あるいはヒヤヒヤしないように)発言していくしかないのだけれど。昔は「町の世話好きおばさん」として許容されていた(と思っていた)発言が、今日ではハラスメントになる、という状況は想像し得る。そしてその状況に息苦しさや不自由さを感じる、というのも分かる。
直近の言説から、もうひとり引用する。
婦人公論.JPに掲載された、馬場あき子のインタビュー。
この二つのコメントは直接的にハラスメントについて言及されたものではないけれども、これらの「発言できない怖さ」「批評のやりにくさ」と、ハラスメント特集で想定されたバックラッシュ的な発言は、結局のところ根が同じだと言えるのではないか。
(主に年上の歌人から)同様の愚痴を聞くことは度々あったし、私自身も加害者として、あるいは被害者の側で世代的なギャップに起因するパワハラの当事者であった。この状況の変化を「時代の風潮」や「ポリコレ」で片付けず、世代間の批評の難しさとハラスメントの問題としてなるべく客観的な目線で腑分けする必要がある。
昔は人間関係に信頼性があったから徹底的に批判できた/今は人間関係が希薄だから批判できない、というロジックは、歌の批評が、先輩ー後輩のような支配的で強固な人間関係の上に成立するもの、という前提がある。また、コミュニティの中で「町の世話好きおばさん」が機能する社会、というのは、年長者からの善意はなるべく受け取るべきである、という前提がある社会、と言えるだろうか。
かつての前提が今日成立しないことへの恐れがバックラッシュとして機能している。この流れは、今回の特集により今後さらに顕在化するだろう。
弁護士の中井智子氏は短歌研究編集部からのインタビューで、批評とハラスメントは違うこと、表現の自由と反ハラスメントは両立することを明言する。
個人として踏まえるべきは、かつて/今日の前提の違いではない。必要なのは今、相対する他者から見て、自分の言動がどのように受け止められるか、という視点である。
小野田光は自身の関与する映画制作の現場を踏まえ、「「場」における上下関係を今日的な価値観にアップデートできない現場でこそハラスメントが発生する確率が上がることを痛感している。」(「あかるい夜を過ごしたい」)と指摘している。上下関係の価値観をアップデートするということと、場における自身の語彙や態度を省みることはワンセットで考えたい。
行動の指針として、例えばプロジェクト『短歌・俳句・連句の会でセクハラをしないために』(発起人・高松霞)が二〇二二年二月に刊行したパンフレットが参考になるだろう。特集の誌面でも、佐藤弓生や乾遥香など、より具体的な行動・考え方について踏み込んで提言するものもあった。
特集の編成としては、寄稿作品十首と「声を届けるアンソロジー」(睦月都選)がそれぞれ充実していたことも言及しておきたい。
私達はずっと三十三間堂にいる。
(短歌研究2023年7月号掲載分をレイアウト修正の上掲載。)
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