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「メラーニアから」/斉藤斎藤『渡辺のわたし』『人の道、死ぬと町』

斉藤斎藤歌集『渡辺のわたし』『人の道、死ぬと町』について
吉田恭大

〇1

メラーニアの住人は年々、新たに変わっております。話し相手は順々に死んでゆき、その間に替って対話(やりとり)に加わるものが、あるものはこの役、またあるものはまた他の役というように、生まれて参ります。だれかが役を変えたり、永久にこの舞台を捨てたり、あるいは最初の登場をしてみせたりするときには、連鎖的な変化が生じ、ついにはすべての配役が新しく入れ替えられるまでになります。それでも一方、癇癪を立てている老人にむかっては、頓智にたけた下女が口答を続けておりますし、高利貸は廃嫡された若者を追いかけまわしてやめませんし、乳母は今もまだ養い娘を慰めておりますし、こうしたことのいっさいは、彼らのうちのだれ一人、前の場面と同じ声、同じ眼差を伝えていなくとも変わらないのでございます。

イタロ・カルヴィーノ『見えない都市』米川良夫訳・河出文庫

それが架空であれ実在であれ、市の中の人々の営み、という俯瞰で示されるスケール、の遥か手前に私たちの生活はあり、私たちは大抵の場合半径五メートルくらいの視野で汲々と暮らしている。

ひとりひとりの半径五メートルの世界を丁寧に描写していくことが、短歌形式の優れたメゾットの一つである、というのはここで言い切ってしまっていいだろう。老人であっても下女であっても、高利貸や廃嫡された若者でも、誰のものでも生活は尊い。加えて言えば、勤労や納税は生活ほどは尊くない。

本稿では、斉藤斎藤の第一歌集『渡辺のわたし』および第二歌集『人の道、死ぬと町』について、主に作中の他者の在り方からアプローチすることをひとまずの目的とする。

個人の生活における半径五メートルのかけがえのなさと、社会の中での人間そのものの「かけがえのなく無さ」は、物語としては何かと対置して扱われがちだが、実際のところ生活も社会も対立することなく、グロテスクに連続している。短歌の暫定的な分類でいえば、生活詠と社会詠に明確な区別はなく、広い意味での社会詠として機能するものと、狭い意味での社会詠として提示されたものがあるに過ぎない。

人間はある特定の時代のある特定の社会に属して生きるので、(A)その社会を背景に詠む歌、(B)その社会について直接的に、具体的な事象に言及して詠む歌、の二通りを考えた際、人間の身体から作られたほぼすべての短歌は(A)である(社会の影響を受けない歌の可能性も完全には否定されない)。しかし、一般に「社会詠」「時事詠」というときに指すのは(B)であることが多い。

(相田奈緒「関係のある歌」/「短歌人」二〇二〇年五月号 時事詠に秀歌はあるか、ないか)

と、社会詠について相田奈緒がクリアにまとめている。
少し強引ではあるが、斎藤作品をこれを当てはめて考えるならば、『渡辺のわたし』は(A)その社会を背景に詠む歌の方法論、『人の道、死ぬと町』については(B)その社会について直接的に、具体的な事象について詠む歌の方法論が立ち上げられていると言えよう。順を追って読んでゆく。

このなかのどれかは僕であるはずとエスカレーター降りてくるどれか
目に映るすべてが君に見えてきて君じゃなさそうな駅員を抱く   

『渡辺のわたし』

『渡辺のわたし』、は個人の代替可能性について、あるいは話者としての「わたし」や作中の対象(例えば「君」や「あなた」)の不確定さについて、繰り返し言及する。阿波野巧也は新装版の解説において先の二首を挙げ、その特徴を纏めている。

なにものでもない〈わたし〉は、ひっくり返せば、なにものにもなりうる〈わたし〉である。(略)そのような世界では「君」ですらも分裂し、氾濫し、よくわからなくなってしまう。ここで、目に見える「みんな」ではなく「すべて」であるのがポイントである。人間も動物も植物も非生物もすべてがどんどん「君」に見えてくるのだ。そんな中で「君じゃなさそうな駅員」を抱くことで、「君」の存在とは何なのかということを逆照射し、掴みとろうとしている、そんな歌だと思う。

『渡辺のわたし』新装版 解説・阿波野巧也

わたし、や、あなた、といった人称について、自己言及的に詠んだ歌。さらに『渡辺のわたし』という歌集名そのものからも、短歌の私性、一人称システムに対しての抵抗を読み取ることができるかもしれない。

私性に対する抵抗。短歌における一人称の前提は、何らかのレトリックで能動的に抗わない限り、おおよその歌を作中主体、話者のモノローグに落とし込んでしまう。そして、能動的に抗わない限り、モノローグは作中主体と作者を積極的に混同させる。

レトリックとしての抗い方、たとえば一首単位での人称の入れ替え。

公園通りをあなたと歩くこの夢がいつかあなたに目覚めますように   

『渡辺のわたし』

 思い返せば、

アメリカのイラク攻撃に賛成です。こころのじゅんびが今、できました 

『渡辺のわたし』

にまつわる一連の議論は、結局のところそれが短歌であることによって補完された、一人称=作者という運用をするかどうか、という読者側のポジションを巡る話であった。(この一首をを巡る議論については中島裕介「『解釈』にもとめられる(べき)一貫性」/短歌往来二〇一九年五月号)に詳しい。

瀬戸夏子はイラク攻撃の歌を引きつつ、

短歌というヴィークルがそこにさしだされれば、人は多く、そこに乗り、そのヴィークルを使ってある「ひとつの歌」を歌ったその歌人の「情」を再体験する/させられる。その歌を読むことでその歌を詠んだ歌人と短歌というヴィークルを通してある感情を共有する。そのヴィークルを通して伝えられた「情」が好ましいものであるにせよ、そうでないにせよ、歌を通してそれが伝達されるということにはかわりがない。しかし斉藤の歌において、短歌というヴィークルはそもそもそのような装置としては想定されていない。あるいは想定された上で、別のものへとそれを変化させている。知らず知らずのうちに読者を別の場所へと導こうとする。短歌という形式=あるひとつの歌=ある歌人がひとつづきであるようなヴィークルとして斉藤の歌をとらえ、乗り込もうとすれば肩透かしをくらうだろう。斉藤のヴィークルは底が抜けている。

瀬戸夏子『現実のクリストファー・ロビン』書肆子午線・二〇一九年

短歌定型をヴィークル=乗り物に例えたうえで、読者はそこに乗ることで作者の「情」を再体験する、という短歌のオーソドックスな一人称の読み筋と、それから逸脱するものとして斉藤の歌を対置している。

〇2

 ときとしては、たった一人の話し手が同時に二役も三役もやってのけなければならないことも起こります、たとえば、暴君と慈善者と伝言役という具合に。あるいは一つの役が二つにも、また幾つにも分けられて、メラーニアの何百人、何千人もの住民に当てられることさえあります、偽善者の役には三千人、寄食人(いそうろう)にも三千人、逆境に落ちて身の上の明らかにされるのを待っている王子の役には十万人という具合です。

『見えない都市』

『渡辺のわたし』では一首単位で機能していた一人称への抗いが、『人の道、死ぬと町』では複数の他者の発話を引用した膨大な詞書として連作単位で投入されている。 

詞書の多用が見られるようになるのは、2007の章の「今だから、宅間守」以降である(大阪池田小事件は二〇〇一年、犯人の死刑執行は二〇〇四年)。短歌作品においても、韻律のずらし、はずしを多用する歌人であったが、小さなフォントで添えられた文章は、定型に乗せることで生じる陶酔と完結感、死者(他者)を生者(わたし)に奉仕させてしまうことを牽制しながら、歌を補う役割を負っている。

吉野亜矢「長い時評のような歌集に」/未来二〇一六年十二月号 

「今だから、宅間守」、「人体の不思議展(ver4.1)」、「ここはシベリアのように寒いね」、いずれも詞書を含め周辺情報の多い連作である。連作ごとに情報量の多い空間が展開されるが、書割的に描写される登場人物も含め、読み進むのに必要な要素はきちんと読者の前に揃えられている。
それから震災以降の連作と、二〇一五年に発表された、二〇〇九年の笹井宏之の死についての長大な連作「棺、「棺」」。震災以降の連作群では、他者を詠む、とりわけ他者の死を詠む、ことへの後ろめたさについて、斉藤は繰り返し言及する。

私性とは、最もせまく、最もつよい当事者主義である。私の当事者は私だけだ。あなたの当事者はあなただけなのだから、私はあなたの体験を語るべきではない、というのだから。当事者性の問題を歌人が考える場合、非被災者は震災についての創作を控えるべきか、とか、原発事故における加/被害者とは誰のことか、といった、震災をめぐる具体的な問題より以前に、私性の問題、即ち、そもそも他人の体験を私が歌にすることは許されるのか、許されるとすれば、それはどのような資格においてかという問題に、ぶち当たることになる。

『人の道、死ぬと町』「私の当事者は私だけ、しかし」

 私の当事者はわたしだけ、しかし。あなたというあなたの当事者はもう存在しないのだから、あなたの死は私の生のありがたみにおいてのみ書かれることができる。私の生に書かれなければあなたの死は、存在しないみたいだろうか? 

『人の道、死ぬと町』「私の当事者は私だけ、しかし」

『渡辺のわたし』で一首単位で提示された私の交換可能性が、『人の道、死ぬと町』では「当事者」という言葉、逆説的な交換不可能性となって再び読者の前に現れる。一人用のヴィークルに何人もの人間を載せて、でもそれは作者の「情」の再現ではないのだ。ますます読者はどこに乗ればいいか戸惑うが、それでも運転手は斉藤斎藤一人だろう。

美術家・大岩雄典は斉藤作品の「他者へのなり替われなさ」について、以下のように述べている。

 斉藤は、自他のあいだの、度し難い〈差異〉をテーマに持つ歌人だ。わたしは決してあなたではなく、あなたもわたしではない。わたしは彼ではないし、彼はまた別の彼ではない。しかし同時に、彼は、あなたは、わたしは、まったくのブラックボックスではない。同じ有機体で、通じる言葉を発し、おおむねは似ている心理を持ち、ある社会のなかで、それぞれに暮らしている。わたしと彼とはお互いをすこし想像しえるが、一致すること、憑依することはけしてできない。

「あなた」と「わたし」の境界線はどこ? 大岩雄典評 小田原のどか《↓(1923-1951)》と「近代を彫刻/超克する」展

作者のみならず、読者にとってもまた、作中の話者と一致すること、憑依することはできない。しかしわたしたちは「すこし想像しえる」。この有限の想像力への期待は、むしろ作者としての全能感とは程遠いものだ。

〇3

時が経つにつれて、その役柄でさえ正確に以前と同じままではなくなって参ります。もちろん、これらの役が数々の筋立てや見せ場を通じて推し進めて参りますその行為は、何らかの大団円にむかってゆくものでございますし、またこんぐらがった状況がますます混沌となり、障害がますます大きくなって来るように見えるときでさえ、涯しなく解決に近づき続けているのです。継起するそのおりおりに広場へ顔をのぞかせるものは、幕ごとに台詞(せりふ)が変わってゆくのを耳にしておりますものの、メラーニアの住人たちの生命(いのち)はあまりにも短すぎて、これに気がつくことさえございません。

『見えない都市』

まだ死んでいない作者によって差し出された人の死を、同じくまだ死んでいない側にいる読者としてのわたしはどう受け取ることができるか。

 一見すると、そこには通常の短歌連作のような「一人の人物の顔」は見えない。が、多くの声を引用する統括者としての「私」の顔は、これらの声の背後にまぎれもなく存在している。それは他者の声を再構成することに対する全責任を負う主体である。斉藤はこの歌集において、短歌の私性を、そのような倫理的主体として捉えなおし、更新しようとしているように思われる。

大辻隆弘「私性」の豊かさを取り戻す/「歌壇」二〇一六年十二月号

倫理的主体は、何を描くか、何を引用するか、と同時に、何を書かないか、によっても規定される。

大辻の言う倫理的主体、は作中の主体、話者としての私たちを統べている存在として考えることができるだろうか。多くの他者を取り込んだ作品の中で、作者は、話者の一人として作中に紛れると同時に、「他者の声を再構成することに対する全責任を負う主体」、どちらかといえば舞台芸術の演出家に近い存在として立ち振る舞う。

作者によって倫理的に構築された連作において、作中の人間への単純な共感や感傷以外の回路で作品を受け取るためには。少なくとも、『人の道、死ぬと町』に関して言うならば、私のために作品があなたを蕩尽すること、の後ろめたさを忘れてはならないと思う。

私の生に書かれなければあなたの死は、存在しないみたいだろうか? 

『人の道、死ぬと町』「私の当事者は私だけ、しかし」

読者としてのわたしは、わたしはあなたではない、そしてあなたはわたしではない、という自明をあらためて思い出しながら、差し出された、誰かのいた痕跡に向けて、臆病に手を伸ばすしかないのではないだろうか。

(ねむらない樹 vol.5掲載『メラーニアから―斉藤斎藤についての私論』より改稿)


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