まちおかのある街に暮らして/絹川柊佳『短歌になりたい』
短歌になりたい。わかる。わたしだってなれるならなりたい。本当に?
わたしたち人間は、短歌を作ることも、あるいは見方によっては短歌の中の登場人物になることもできるのだけれども、人間は短歌ではないので、短歌そのものになることはできない。
いずれも、都市部の年若い人間の暮らしを読み取ることができるが、とはいえこの歌集を、日常を丹念に描写するタイプの、いわゆる既存の「日常詠」「生活詠」の範疇で扱うのはなかなか難しい。
例えば、この歌集の飲食の歌の多くは菓子類で、しかも「おかしのまちおか」(都心を中心に六十店舗以上を展開するおかしの専門店)にあるような安価な駄菓子たちだ。
お菓子ばかり食べているから、というわけではないけれども、暮らしのディテールは(そのうえ、それを扱う手つきは)かなり荒んでいて、繰り返される駄菓子と生活に、個人的には凄みすら感じる。
生活と生存を手放すような身軽さ。マズローのピラミッドの、上から見下ろしている下の方。
何者かになりたい、なれない、ことの呪いは私たちを深く苛みつづける。
短歌的な修辞は、歌中の対象に何らかの感傷を仮託させることができるけれども、それが即物的に成立すればするほど、主体そのものの何者にもなれない息苦しさが際立ってくる。
最後の一首。
そのあとには後書きも解説もなく、いきなり剝き出しの奥付がある。
歌集刊行によって、なりたい、という願望が作者の中でどうなったのかわからない。
短歌にはなれなくても歌集は出せる。
一冊の書物の形でこの歌群が世に出たことは、わたしたちの信奉する「短歌」の詩形にとって歓迎すべき変化の兆しであると感じた。
(短歌研究2022年9月号掲載分を改稿)
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