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私は、なにもの?

 コロナ禍の4月半ば、瞑想にも飽きて暇を極めた私は、掃除をしようと部屋中の本棚をひっくり返した。
 気づくと夕方、手にはめくるページも残りわずかな『ハリーポッターと炎のゴブレット』の下巻。床に座り込んだ自分を囲むように、積み上げられたハリーポッターシリーズ、散らばった大学2年次の講義レジュメ、写真、新聞、手紙に年賀状。掃除をした時のお決まり状態にまずいまずいと本にしおりを挟んだところで、ある偉大な魔法使いの言葉に目が留まる。
"大事なのはどう生まれついたかではなく、どう育ったかなのだということ____ ”

 9月7日、新浦安。
 「 障害者 と表現するけど、それって一般的に 健常者 と表現される人とは何が違うの?」「世の中に 健常 な人なんていなくて、みんな何かしらを抱えて生きているんじゃない?」ホワイトボードに向かって、自分たちの想いをどうにか言葉にしてぶつけた。言葉に詰まる時ほど、考えが、想いが、頭の中にぎゅうぎゅうに詰まっていると感じる。
 「私たちってさ、結局 なにもの なの?」今となっては誰が口にしたのか思い出せない一言。しかし、その場にいた全員にずっしりとのしかかった、その感覚は今も鮮明に覚えている。社会福祉や法制度の話に留まらず、もっと広範囲な部分から障害について切り込むことで自分自身の存在を見つめ直す。そういう目的で「私は、なにもの? 障害者のリアルに迫るゼミ@上智大学」、通称「なにものゼミ」は生まれた。


 そういえば、とアルバス・ダンブルドアの言葉を思い出したのは、ミーティングからの帰路、揺れる東海道線車内。「私は、なにもの?」という問いかけが、体中をめぐっていた。私は今まで生きてきた20年の中で、何を見て、何を感じて、何を自分に取り込んできたのか。私がたった20年で見てきた社会は、「社会の一部」とも呼べないほど狭いのではないか。わかった気でいる社会は、自分が勝手に想像して作り上げた社会なのかもしれない。想像とリアルは違う。リアルに迫る、自分自身の存在を見つめ直す。初めて現実の社会に触れることができるのかもしれないと思った。初めて自分を理解できるのかもしれないと思った。

 社会に生きる1人として、そのリアルに迫る。社会を知ることで、自分を知る。「なにものゼミ」の可能性。どう育ったか、どう生きてきたか。リアルは想像をはるかに超える。
 

広報:百木田、深瀬




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