「理解」のなにか

どうも、学生です。
「わかる」という言葉には、三つの漢字が当てられてることにとても興味がそそられる学生です。
多分、皆が使う「わかる」は「分かる」だろう。意味的にも。
さて、今回は「『理解』のなにか」です。

「理解しました。」
この言葉は、日常で使われることが良くある。
社会場面でもそうだが、
私が学生だからというのもありましょうか、
学校。特に、大学の簡易レポートでよく使う言葉であると思います。
感想や先生に伝えたいことの欄に
「授業内容の○○について、理解しました。」と。
頭の中でも、「この事柄は十分に理解した。」と
自分の中で反芻するときもある。
でも、その「理解」は果たして本当に「理解」しているのだろうか。
私は、「理解」について考えて、あることに気づいた。
私を含め、皆が使用している「理解」の意味は、
「知っている」を少し格好つけて言っているだけである。と、
インテリに見られたいから。
私はそう。

「知っている」と「理解している」には、大きな差がある

そんなことに私は気づいた。
遅ればせながら。
もちろん「知っている」と「理解している」のベクトルの向きは同じであると考える。
「知る」というカテゴリーには含まれているため。
ただ、「知っている」と「理解している」のベクトルの大きさを比較してみると、大きくかけ離れているのではないかと考える。
もちろん、「知っている」というベクトルが小さいわけではない。
「知る」ことには、何かしらきっかけであったり、自分の好奇心の矛先がそちらに向かわなければ、「知る」ことにたどり着かないから。
ベクトルが大きいことには変わりない。
ただ、その何倍も何十倍もの大きさを「理解している」が持ち合わせているというだけの話である。
理解というのは、その事柄について深く探る必要がある。
それは、時間や労力、時には人脈を使って行う必要がある。
骨が折れる作業であり、途中で挫折することもあるから、
「理解する」ところまで行くのには、
相当骨太な肉体を持ち合わせているか、
それとも、探求心が常に勝利し続けるか、
であろう。

そして、
私はもう一つ提言すると、

私を含めた多くの人は、「知っている」という段階で「理解している」と思っているのではないか。

先ほど記述したように、
「理解する」というのは、難しいということではないものの、
そこに辿り着こうとするために、長い道のりを要する。
でも、我々は事柄でも、概念でも、人間においても、
「理解している」と思ったり、感じたり、言葉に発していたりする。
私もその一人。
でも、よくよく考えてみると、
果たしてそれは「理解している」と言えるのだろうか。

例えば、相手がバイトの辛さについて話していて、
「辛いんだよねぇ。」と言った際、
私たちは、
「辞めれば?」とか「楽しいこと見つけなよ!」とか
アドバイスのような相づちのような返答を相手に投げかける。
相手は「そうだねぇ」と納得したように微笑むだろうが、
その実は何も解決していないのではないか。
相手に対して、「理解してない」のではないかと考える。
まぁ、この例では、単なる愚痴を聞いてほしかっただけだから、
別に自分に愚痴を投げた時点で、
その相手はスッキリしていることもあるだろうけど。

…話を戻して、
この例で相手を「理解してない」と考えるのは、

相手が持つ「個別性の辛さ」に目を向けてないから

であると考える。
もちろんしょうがない部分もあるが、
私たちは、相手が何か投げかけてきた問いに対して、
その問いの事柄を一旦、「一般的な事柄」に移して考える。
例で言うと、
「バイトの辛さ」の問いに対して、
「一般的なバイトの辛さの例と対処法」を挙げ連ねていく。
そして、その中で最適解であろう答えを持って、
相手に投げかけている。
別にこれでも構わない。
ただ、「理解している」とはとてもじゃないが言い難い。
その回答に相手が持つ「個別性の辛さ」が含まれているのだろうか。
回答するためには、一般的な回答の例を持ち合わせている必要はある。
そうでなければ、回答の選択肢が増えていかないから。
ただ、個別性を見て回答するのであれば、
一般的な視点の回答をそのまま提示するのではなく、
相手の個別性に応じて、回答を調合する必要がある。
ただ投げかけて、「理解している」と言っているならば、
もう少し相手の内側を探ることをしてほしいとも感じる。
難しいし、それによって亀裂が入ることもあるが。

ここまで
「『理解』とはこういうことなのではないかっ!」と
つらつらと書いていたが、
正直私も「理解」について理解しきれていない。
現時点での考えとしてはこうであるだけで、
数日後、もしかしたら、一時間後には
もう考えがガラッと変わっているかもしれない。
「理解する」ことなんて
本当は、100%達成することは不可能ではと考える。
特に人間相手では。
だから面白い部分もあるし、悲しい一面もある。
だからこそ、安易に「理解した」とは思わない方が良い。
でも、「理解する」ことは続けていった方がいい。
それによって、誰かの、何かのためになっていると考えると。

だから、考え方としては、
「私は今、『理解しようとしている最中』なんだ。」
が最適解なのかもしれない。
目標地点はまだ先過ぎて、見えていないが、
その道中の過程がいずれ自分の糧になると信じて進んでみる。

まぁ、大学のレポートには
「理解できました。」って
今後も書くけどね。
おそらく大方。

今回はここまで。次回も何卒。


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