「友人」のなにか

どうも、学生です。
LINEの友達を整理したい学生です。
卒業以来合っていない人とか消したいけどなかなか。。。
さて、今回は「『友人』のなにか」です。

私は考えすぎなところが多く、さらに心配性な面が大きい。
特に、人間関係において、それが如実に出る。
話していても、
「今私と話してもいいのだろうか。」
「この人にはもっと有意義にこの時間を活用したいのではないか。」
そう考えて、話していても時が止まることがある。

挨拶も容易にできない。
「私はこの人とあいさつができる関係値にいるのだろうか。」
「反応が薄くなってしまわないだろうか。」
だから、私はイヤホンを付けて外界をなるべく遮断してしまう。

別に考えなくてもいいのに、
でも、こびりついた思考回路であるから、
逃れようにも逃れられない。
心的距離や実際の対面状況など様々な要素を考え出してキリがない。

幼少期は「このことは友達だ!親友だ!」と
そう軽い考えで人と接していた。
確か中学までは、大人になっても、友達と交流できるんだろうなぁと
そう考えていた。
ただ、高校生になって、大学生になって、
その過程で徐々に思考に異質なものが現れた。

それは、中学でできたグループと会う頻度が少なくなってきたことが起因されていると思う。
学校ではつるむ関係、グループLINEを作り、区切りの時期に食事に行き、
泊りがけの旅行もした仲である。
「大人になっても、こいつらとバカやってるんだろうなぁ。」
そいつらといる時、青春の風が微かにも吹いていたのは感じていた。

ただ、卒業して、離れて、高校生になり、大学生になり、
その中で、相手も自分も新たな関係性を築き、
次第にいろいろな距離が離れていくのがわからされるようになった。
結構な孤独感にやられてしまった。いや、現時点でもやられている。

関係値が築き上げられたとしても、
時間の経過で、ゆっくりと離れていってしまうのか。
自分は結構考えているのにな。
親友とは何だろう。友人とは何だろう。
定義は?境界線は?
そう考えていくと、悪い意味で、
友達、親友という概念が神格化されていくのがわかった。
高貴なもの。高嶺の花と言えようか。

別にそんな感じでもいいのかもしれない。
あえてそういう位置づけを設けることで、
相手を大事に思おうと、より考えることもあり得るだろう。
ただ現時点では、ありがたいことに
連絡をとれる関係にある人はとても良い方ばかりで、
こんな自分にとって、とても恵まれた環境にいるなとつくづく思う。
でも、だからこそ、
だからこそ、順位付けというか、
曖昧に定義づけをして、曖昧に境界線を引くことが
関わってくれる方々にとって、不義理になってしまうと考えてしまった。

そんな感じで、私自身が簡単に境界線を張り、定義づけをして、
人と接していいものではないと考えている。

だから、私は、親しい人に対しても、
「友人」という肩書を相手に付けるのを辞めた。

哀しいことなのか。それとも、喜ばしいことなのか。
相手にとっても、どういう受け取り方をされるのか。
よくわからない。今はわかりたくもない。

なぜだろう。
解き放たれるために決意したのに、
晴れずにどんよりとした曇り空があたりを覆う感触は。

考えなんて常に変動するものなのだから、
また友達という名称を使う時が来るのかもしれないが。
今現在は、この考えでそっとしておこう。

今まで思っていたことを書いているだけなのに、
動かしている手と脳が重く気だるげになっているのは、
まだ、すがりたいのかね。
自分の理想郷が現実になっていた世界線を。

今回はここまで、次回も何卒。

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