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「働かないふたり」にみる幸福論

吉田覚さんの「働かないふたり」の最新19巻を読んだので、改めて守と春子が何故あんなに幸せそうなのか考えてみようと思う。
(ちなみに読んだことある人向けに書いているので、作品の詳細については解説していません)

そもそも、幸せな人生というのはどういうものだろうか?

お金をたくさん持っている人生だろうか、確かにいつもお金の心配をしているのは不幸だ。しかし、稼げば稼ぐほどどんどん幸福になるわけではない、というのも証明されているらしい。これを限界効用逓減の法則と言い、一説には、お金のことを気にしなくても普通の生活ができる程度の収入もしくは、資産があればそれ以上のお金は幸福に寄与しないと言われているのだそうだ。

幸せを定義する

では、何があれば我々は幸福になれるのか、作家の橘玲さんは著書の「幸福の資本論」で幸福になるためのインフラを「金融資産」「人的資本」「社会資本」と定義し、それぞれから手に入るアウトプットを以下のように定義した。

・「金融資産」があれば「自由」が手に入る
・「人的資本」があれば「自己実現」から幸福感を得られる可能性がある
・「社会資本」があれば「他者との繋がり」から幸福感を得られる可能性がある

十分な金融資産があればお金に対する心配から自由になれる、また「経済的独立」を手にすることによって自分が嫌だと思うことからも自由になれる。しかし、アリストテレスさんが言ったように人間は社会的動物なので、我々の幸福の源泉は人との関わりの中にこそある。つまり「金融資産」だけがあっても幸福感を感じることはできないが、「自己実現」は間接的に、「他者との繋がり」は直接的に幸福に関わってくる。

「自己実現」

「自己実現」と「働かないふたり」の関係について考える前に、「自己実現」という言葉を聞いても私がピンとこなかったので、もう少し具体的な言葉に変換しておこうと思う。ググったところによると「自己実現」した状態とは、「本来の自分のままで、社会に貢献している状態」だそうだ。

「本来の自分」というのも、「自己実現」と同じぐらい不明瞭な言葉だと思う、これについては前述の作家橘玲さんが同じ本に書いているのでググらなくてすんだ。「三つ子の魂百まで」と言われるように、人間の性格というのは、幼少期に所属した子供の集団の中で自分を目立たせるために選んだキャラクタによって決定され、終生変わることはないのだそうだ。例えば、幼少期に三枚目キャラクタだった子供が、大人になって固い職業について「本来の自分」と違うと悩むというのは容易に想像できるのではないだろうか。つまり「本来の自分」とは「幼少期のキャラクタ」と言える。よって「自己実現」した状態は「無理せずに幼少期のキャラクタのままで、社会に貢献している状態」と言い換えられる。

「働かないふたり」と「自己実現」

守と春子について考えてみよう、ふたりの生活のベースは子供時代から変わっていないので、「本来の自分」と違うと悩むことはなさそうだ。「社会に貢献」について、守はボランティアに参加したり、すみよさんの体調が悪いと聞けば助けに行ったり、春子も同じく謎のアドバイスをしたりしている。本人たちは貢献しているとかそういうつもりはないだろうけど、誰かを助けたり、地域のために働いたりすることから、守と春子は無理をすることなく幸福感を得ているのではないだろうか。

「他者との繋がり」

次にふたりの「他者との繋がり」について見ていこう。ふたりは成人したニートの兄妹にしては珍しく家族仲が非常に良い。また、兄妹ともに学生時代の友達と交友関係が続いている。更に完全に姉と化した近所の住民(倉木さん)や、趣味の仲間(戸川さん)や、公園でなんとなく集まる飯塚やすみよさんたちとの交友関係もある。こう言った幅広い「他者との繋がり」からふたりが幸福感を得ていることは間違いないだろう。

「気の良い人」ばかり集まる不思議

では、何故のふたりの周りには「気の良い人」ばかりが集まるのだろうか。フィクションだからというのは置いておいて。少しだけ考えてみようと思う。

逆に「気の悪い人」を定義する

「気の良い人」について考えるために、逆に「気の悪い人」ってどういう人なのか考えてみよう。
絶対的に気の悪い人」というのはおそらく存在しない誰かにとって「気の悪い人」も他の誰かにとっては「気の良い人」になりえるからだ。

では何故「気の悪い人」というのは発生するのだろうか?
これには人に個性がある以上防ぎようの無い「気が合う」「気が合わない」という相性の問題と、付き合う人を自由に選べない環境が影響していると考えられる。
職場や学校、家庭などの簡単に抜け出すことができいない環境で「気が合わない人」と行動を共にしていると、行き違いなどからどうしても軋轢が生まれ「気が合わない人」を「気の悪い人」だと感じてしまうものだ。
つまり「気が合わない人」というのは職場や学校、家庭などの抜け出すことが容易にできない環境に人間を複数人放り込むと発生する現象だと言える。

「気の良い人」ばかりな理由

守と春子には家族をのぞけば他人との行動を強制される環境は存在しないので、「気が合わない人」は「気の悪い人」になり得ない。また、もしも「絶対的に気の悪い人」がいたとしても一緒に行動する必要がないので問題にはならないと考えられる。
もちろん、ふたりの性格が良いから「気の良い人」ばかりが集まるということもできるが、そもそも家族仲のよいニートには「気の合わない人」と付き合う必要性がないので周りは「気の良い人」ばかりになるのでは無いだろうか。こう考えると、「働かないふたり」の登場人物が「気の良い人」ばかりなのは、フィクションだからというわけではなく、主人公たちの属性上必然であると言える。

まとめ

守と春子の「働かないふたり」は四六時中お金の心配をしなくて良くて、無理無く地域社会への貢献をし、「気の合わない人」との行動を強制されず、仲間に囲まれて暮らしている。こう言って仕舞えばそりゃ幸せそうでしょうよ。と思わずにいられないが、仕事から解放されただけで誰しもがふたりのようになれるわけではないだろう。「働かないふたり」は日常漫画としてほっこりするし、笑いと癒しを与えてくれるが、ふたりの生き方には「限界費用ゼロ社会」や「ベーシックインカム」などで働かなくて良い世界が来た際に、幸せに暮らすためのヒントが含まれているように思える、家から出られないこんな時だからこそほっこりしたり、笑ったり癒されたりしながら幸福についてじっくり考えてみてはいかがだろうか。


参考文献とか

働かないふたりー連載ページ

橘玲著「幸福の資本論」

ジェレミー・リフキン著「限界費用ゼロ社会」


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