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劣等感の「泥濘 (ぬかるみ)」と「轍 (わだち)」

私が子供の頃の埼玉県鶴ヶ島町 (現在の鶴ヶ島市) は、まだまだいたるところに砂利道が残っていました。むしろ、通学路はほとんど砂利道でした。

砂利道はしばらくたつと、車の通るタイヤの跡がだんだん溝状になって、そこに水たまりができるようになります。

そこを時々、私が「けずりがお」と呼んでいたモーターグレーダーが「ガガガガガー」と大きな音と振動でまわりを震わせながら、道路を削って平らにしていったものです。

その頃の私にとっては道路の水たまりは水たまり、道路のへこみはへこみでしかありませんでしたが、小学校に入学して、まだ友達の名前も覚えられない頃、私の前に座った小学校からいっしょになった男の子が、先生に「きょうは雨で道路がぬかるんでいましたね」と話しかけると、先生が「そうだね。洋服汚さなかった?」と答えていて、なんだか衝撃を受けました。

先生に丁寧な言葉で話しかけているのも驚きでしたが、そもそも「ぬかるみ」という知らない単語をさらっと使っていることに驚き、これは学校でがんばって勉強しなければ大変なことになりそうだと、すごく焦ったことを思い出します。

その後、国語の時間に、先生が「車が通った後の溝のことを何と言うか知っていますか?」と尋ねた時に、クラスの何人かが「わだち!」と答えていたことにも衝撃を受けました。

「みんないったいどこでそんな言葉を学んだのだろう?自分はもっと本を読まなければだめだ。」と真剣に考えたものです。

梅雨の季節になると、「ぬかるみ」と「わだち」に焦っていた自分を思い出します。入学でも、転校でも、子供の頃の私は新たな友達に出会うたびに劣等感を感じていたようです。焦ったおかげで少しは勉強する気になれたのかもしれません。

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