ブスバスガイド・バスガス爆発
はじめに
中学校の修学旅行というのは小学校のそれよりも自由度が高くなります。自由時間も多くて、お小遣いの上限も少し上がります。しかし、残念ながらどこに行ったのか、誰と同じ班だったのか、何を食べたのか、などの思い出らしい思い出についての記憶は一切ありません。覚えているのバスの車内のことだけです。正確にいえば最後の観光名所から宿舎に戻るバスの車内での出来事。それしか覚えていないのです。
綺麗でかっこいいバスガイド
およそ30名の僕たち生徒は、バスガイドさんに夢中でした。とても綺麗でした。思春期の中学生は男子も女子も年上の綺麗なお姉さんが好きです。彼女は少しエスニックな雰囲気を持ち合わせていたので、もしかするとハーフだったのかもしれません。二十代半ばでしょうか。すぱっと鮮やかつるつるのきらめく黒髪ショートカット。顔立ちと髪型の印象は当時流行っていた木村カエラを彷彿とさせました。白いブラウスに黄色いネクタイ、そこに明るめの紺のジャケットを羽織っていてとてもかっこいい。
彼女は関東出身らしくずっと標準語で話していました。大阪弁の僕たちの使う言葉が面白いらしく「ねえ、『なんでやねん!』これで合ってるかな〜?」「いや全然ちゃうで!!関西弁へたやな〜!」なんていうやりとりもあったりして終始で和やか、にぎやかな車内。このバスガイドさんとはこの日でお別れでした。3日間ある日程のうち初日と2日目はこの木村カエラ似のお姉さんが担当、最終日は違うガイドさんが来るということでした。せっかく仲良くなったのに。僕はこみ上がる寂しい気持ちにぎゅっと蓋をしてこのお姉さんとの最後のひと時を楽しもうとしました。
僕の座席は進行方向に向かって右側。二つある席の窓側、前から二番目でした。そこから彼女の顔をずっと眺めていました。くっきりとした輪郭、茶色い目、鮮やかな朱色の唇にうっとりしていました。宿舎まであと五分ほど、バスが木に囲まれた細い道路を走っている時でした。僕の隣に座っていた男子生徒が『ブスバスガイド!バスガス爆発やん!!!』と叫びました。彼はクラスのおもしろ担当、ムードメーカー的な役割で、いつも明るく元気でした。授業中もうるさかったので、僕は彼のそういう部分は嫌いでした。
【ブスバスガイド・バスガス爆発】というのは言うまでもなく早口言葉です。彼はウケを狙って叫んだのでしょう。一瞬車内に沈黙が走りましたが、一呼吸置いてドンと皆が笑いました。僕は笑えませんでした。「このバスガイドさんは明らかにブスではないしバスが爆発ってそんなに面白いものではない」と。でもこれは後から付け足したもので当時は「かわいそう」くらいの感情しかなかったかもしれません。
赤い眼
ふと僕はバスガイドの顔を見ました。軽妙に返すのだろうというのは全くの的外れでした。彼女の顔は真っ黒になっていて、鋭い二つの赤い眼が男子生徒を邪悪に睨んでいました。眉間に幾つもの皺ができていました。先ほどまでとは別人のように思われました。
『君、名前は、なんていうのかな』
それまで持っていた車内用のマイクを乱暴に地面に捨て、男子生徒の胸ぐらを掴みます。一瞬たりとも赤い眼が彼の目を逃すことはありません。
「タクマです。スギウラタクマ、です」
彼の身体が小刻みに震えているのを見た僕は、少し嬉しい気持ちになっていました。
『タクマくんっていうのね。いま、なんて言った?』
「いや、あの、」
『なんて言ったの、タクマくん』
段々と語尾が強くなっていきます。それに比例するようにタクマくんの体の震えは大きくなっていました。
「ぶ、バス、ガイド、ガス、、、みたいな」
さっきの早口言葉をもう一度声に出して言う度胸があるわけがなく、彼は必死でごまかそうとしていました。どこかで声がしました。ざまあみろ、と。
次の瞬間、彼女はジャケットの胸ポケットに刺さっていたボールペンを手に取りタクマくんの眼球の寸前まで素早く持っていきました。あと少しどちらかが動けば接触する距離。通路に対して背を向ける形で彼女は立っていたので、左側座席の二人はこのことを知りません。後ろの席の生徒も立ち上がって様子を見る勇気はないようでした。このことを知っているのは彼女とタクマくんと僕の三人だけでした。
二人の秘密
僕はこの時も、嬉しさに近い感情を抱きました。好きな人と秘密を共有しているあの感覚。僕は上がりそうになる口角を抑えるのに必死でした。ボールペンを網膜近くに突き立てながら彼女はとても小さな声、タクマくんと僕にしか聞こえない声で『しねしねしねしねしねしねしねしね』と呟いていました。僕は一層幸せな気分になりました。僕と彼女は似ているなと思ったのです。共感したのです。僕の見る世界と彼女の見る世界はとても似ている。そしてそのことをお互いに認識しあっている感じが確かにあの時あったのです。
『なんてね〜!誰がブスなの〜!もう〜!』と何事もなかったかのようににっこりとした笑顔に戻る彼女。それにつられてみんな本当に何もなかったかのように会話をはじめました。担任の荷物まとめろーという声。ぷしゅうという停車の音。窓の外で出迎える宿舎のスタッフ。タクマくんは黙ったまま何かに取り憑かれたように一点だけを見つめていました。僕にとってはこの一連の現象全てがとても美しく尊いものでした。
気がつくと車内には僕だけが残っていました。放心状態で座席から動けなかったのです。出入り口のドアはなぜか閉まっていました。忘れ物点検を終えたらしい彼女が後ろから現れて僕の隣の席に座りました。タクマくんはもういません。彼女はゆっくりジャケットを脱ぎポーチからタバコを取り出し火を付けました。甘い香りがしました。僕は緊張してしまって何も話せませんでした。彼女もずっと黙ってタバコを吸っていました。煙が無理に話さなくていいよと言ってるような気がして、安心しました。『私今日でバスガイドやめるんだよね』とだけ言って彼女は座席に取り付けられている灰皿に、ピンクの口紅がついた短いタバコを押し込み、ぱちんと蓋を閉じました。
燃えるバス
気がつくと僕たち二人はバスから五十メートルほど離れたところに立っていました。三、二、一。彼女のカウントダウンと同時にバスは爆発しました。魔法のようでした。一気に燃え上がるバスに目を奪われました。鮮やかな赤と黒。立ち上る灰色の煙。濃紺の空。気がつくと彼女はどこかへ消えていました。
その後どうなったのか。いっさいの記憶がありません。中学時代の記憶はこの二十分ほどの出来事だけです。他のことはごっそり抜け落ちてしまいました。バスがあの後どうなったのか。修学旅行は最後まで行われたのか。彼女はどこへ行ってしまったのか。そしてタクマくんは。わかりません。大人になった今も思い出そうともわかろうともしていません。あのかけがえのない美しい共有はたしかにあの時あの場所に存在したのですから。
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