見出し画像

雨で思い出すこと

365日のうち、雨が降る日というのは平均して約100日らしい。人生は365日の繰り返しであることを考えると、人生の1/4は雨の日ということになる。私は今30歳なので単純計算で2700日ほど雨の日を過ごしてきたことになる。

今日は雨が降っている。本格的に梅雨が始まったらしい。「6月に誕生日を迎える人には、ハッピーバースデー梅雨(to you)て言わなあかんな!」とドヤ顔を見せていた親戚のおじさんはいま元気やろうか。「言わなあかん」わけないし、「な!」とこちらに同意を求めてきている。あつかましいにもほどがある。もう何年も会っていない。会う予定もない。さっき「いま元気やろうか」と会いたさを醸し出す好青年を演じてみたが、別に元気かどうかは特段気にしていない。親戚とはそういうものだ。

雨の日の思い出と脳内を検索すると一番最初に出てくるのは、祖父と行った倉敷チボリ公園だ。倉敷チボリ公園というのは、かつて岡山県倉敷市に存在したテーマパーク型遊園地である。祖父は僕たち孫のために関西圏のありとあらゆる遊園地に連れて行ってくれていた。朝10時くらいに到着し、カンカン照りの太陽の中とにかく遊びまわった。そろそろお昼ご飯食べへんか、と祖父が言ってくれないと自分たちの空腹に気が付かないほど無我夢中で走り回った。園内のほぼすべてのアトラクションを乗りつくし、日も沈んできたころ。もう十分すぎるほど遊んだはずなのに、まだ帰りたくない。子どもはそういうものである。この楽しい場所から去るのが惜しいのだ。祖父の「もう帰ろうか」という問いかけに僕と妹は全力で首を横に振った。妹なんかはもう首がもげるほど横に振っていた。祖父は「そうかそうか。そしたら晩御飯食べようか」と言った。僕たち二人は狂喜乱舞した。

園内のレストランはいくつかあったので園内マップを見ながらよさそうな店を探す。「ここがいい!」祖父に示したのはジンギスカンの店だった。「おお、ジンギスカンか。ええなあ。いこか。」と三人で歩き始めたときだった。頭の先に冷たい感触を感じて「あ、雨だ」と思ってから3秒もしないうちにダムをひっくり返したような強烈かつ猛烈なスコールが襲ってきたのである。頬にあたる雨粒が痛い。雨で視界が白くぼやける。園内の舗装されたアスファルトに叩きつけられた雨粒が白い飛沫になっている。私と妹は祖父と手を繋ぎ、とにかく屋根のある場所を探した。幸運なことに割と近い場所に屋根のある建物を見つけた。ほんの少しの間だったが、三人とも見事にずぶ濡れだった。祖父が口を開く。「ん、ん。ここやないか。ジンギスカン。」そう、雨宿りのために無我夢中で駆け寄った建物は、ジンギスカンの店だったのである。「これはもはや落語や。」祖父はそう言って入口に向かった。祖父は桂米朝の大ファンだった。そして人生初めてのジンギスカンをずぶ濡れの状態で食べた。頭の先から靴下の先っぽまで、帽子を裏返したようなよくわからない鉄板の上に羊の肉を乗せて食べる。味はほとんど覚えていない。

私はこの話を妹とよくする。だが妹は決まって「そんな記憶ない」という。両親も、「倉敷まで行ったって話は聞いてないけどなあ」という。祖父は5年前に他界している。この記憶は俺だけが持っている。



この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?