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『インフルエンサー』

「で、はやく謝ってくんない?私も忙しいのね?こんなことに時間割きたくないわけ。帰ってライブ配信しなきゃいけないわけ、わかりる?」

そう言うと女は肩にかけていたヴィトンのバッグからキャスターマイルドを取り出し、真新しいシルバーのジッポで火をつけた。ルージュココが塗りたくられた唇の隙間から漏れる煙は静かな駐車場でほんの一瞬踊ったあと溶けて消えた。一瞬、ガラス越しに、レジ店員の姿が見えたが気にせず続けた。

「ねえ、なんとか言ったらどうなの」

女と向かい合っていたスーツ姿の男性はそれまでじっとアスファルトを見つめていたが、低い唸り声と共に顔をゆっくりと顔をあげ、女の顔面を睨んだ。

男の首の上にあったのは明らかにイってしまっている顔だった。目は真っ赤に充血しずずっと吊り上がり、歯を食いしばりすぎたために出た血が歯茎から顎へ伝っていく。

「おいおいおい、こわいよ、おじさん。おーこわ。何々?食らってんの?被害者面っすか」

肩がぶつかったことがきっかけで始まったこの喧嘩は思いもよらぬ形で血をみることになった。

この男、普段の生活、主に会社で相当なストレスと戦っているらしく、長年のサラリーマン生活で知らずのうちに蓄積されたどす黒い塊、癒してくれる妻も子供もいなく無限テトリスのように積み上がってきた塊が、今まさにゆっくりと噴出している。

女も女で肝が座りすぎているというのか、口から血を流すほど狂乱する男を前にして「被害者面っすか」というのはもはや尋常の人間のなせる芸当ではない。彼女が虚勢を張っているのではないことはタバコを持つ手が一切震えていないこと、男の目の奥をじっと確認し続けていることからも明らかであった。

「黙って聞いてりゃなんだお前は!口のききかた知らねえのか!」
男は手に持っているスナック菓子とストロングゼロが入った袋をぐいぐいと動かしながら精一杯のボリュウムで叫ぶ。

「いやいや、そもそもあんたがぶつかってきたんでしょ。謝りゃ済む話なんだって。スルーできないんだよね、こういうの」
女は半分ほど燃えたタバコを携帯灰皿の中で潰し、2本目のタバコに火を付けた。

「謝るだと?お前みたいな世間を舐め腐った餓鬼どもが増えたせいでこの日本はめちゃくちゃなんだよ!お前こそ謝れ!このくそ餓鬼!」
男の怒りのボルテエジはすでに頂点に達しており、ぐつぐつ沸騰したまま放置されている鍋のようだ。

「ちょい待ち〜!それやばくね?ヤバみザワ・永吉なんだけど。日本がめちゃくちゃになったかなんか知らないけどそれが私らのせいってこと?まじ、ヤバカワ・ノボルなんだけど。そりゃ年金払わねえっつーの。あんたの人生のうまくいかなさを私になすりつけてくんのまじ勘弁ションベンなんだけど。最近多いよね、許せない日常の怒りを私らみたいな目立つ存在にぶつけて優越感に浸る老害」

淡々と一定のリズムで話すこの女は決して口論を楽しんでいるというわけではないのだが、久々にこんなタマが現れたことを内心少し嬉しくも思っているようだった。時折見せる上がった口角からは自宅のソファにて膝にマンチカンを乗せワインを片手にフランス映画を見ているような余裕が感じられた。

その余裕さ、滲み出るゆとりのようなものが鍋下の火力を轟々と上げていく。すでに水分はすべて蒸発し、今度は鍋そのものが過分に熱せられオレンジ色に染まっていくところであった。

「老害だと!?ぬうう!!礼儀を知らねえのか!誰に口きいてんだ!」
汚く伸びた爪の先で口周りや顎、首元をかきむしり乾いた血をこそげ取りながら男は続ける。
「俺にタメ口を使うんじゃない、年上だぞおい!こういう状況下でタバコをプカプカ吸える神経は本当に頭が悪いとしか言いようがない!ドクズ!社会のゴミ!低脳!」

男のだらしない口からアサルトライフよろしく飛び出す唾を、避けようともせず全身でむしろ浴びにいくようなふうにして女は一歩距離を詰める。

「いや礼儀、礼儀っていうけど、もうすぐお前ら死ぬくね?もうあと何年かで死ぬくね?大雑把に考えればもはや死んでね?じゃあ敬う必要なくね?もう死んでる、もう死まで秒読みのやつを敬うってコスパ悪すぎなんですけど」
さすがに女もいよいよ本格的にいら立ち始めたのか、箱に入っている残り8本のタバコをまとめて口に加え、線香に火を付ける時のようにライターを左右に動かしながら葉っぱに満遍なく熱を与え、一気に吸い込んでその全てニキビだらけの男の顔面に向かってゆっくりと吹きつけた。

「ゴホっ、なんだ貴様!ふざけたこと抜かすな!そんな態度だから、世間を舐めているから、お前らのようなやつは社会から見放されているんだよ、バカは損をするんだよ、わかんねえのかクソ!一生下級国民として生きていけ!」

「損してなくね?私インフルエンサーやってっけど、満たされてんだよね?まじ超イケメンの彼氏いるし、お金も不自由なく生活してやりたいことの八割くらいはスッとできるくらいは稼いでるし、それでよくね?何がいけないの?」

「お前らが電車とか街中とかドンキとかで騒いでる姿を見ると心底ムシャクシャするんだよ!!目障りなんだよ!」

「いやそれ全員じゃなくね?最近の若い奴で一括りにして叩くのマジ旧石器時代なんだけど。しかもオッサンにも若い時代あったっしょ。度を超えて悪いことすれば法律でなんかされるんだし、よくね?それかあれじゃね?おっさんが法律作ればよくね?大声禁止法案とか?」

「違う違う、違う。広がりがないだろ!狭い世界で生きてるだけなんだよ!逃げてんだよ!うちうちのコミュニティで固まって、内輪ノリでギャーギャー騒いで迷惑なんだよ!一歩外に出てみろよ!生きていけねえぞ!いっそ死ね!」
手に持っていた袋をアスファルトに叩きつけたがスナック菓子がクッションとなり男の想定した迫力のある音は出なかった。

「外に出る必要なくね?今私が100%感じてたらそれでよくね?外野からとやかく言われる筋合いなくね?いらない情報とか新しい価値観を知ってしまうから常に満たされずにオッサンみたいな存在が生まれるんじゃね?」

と、その時だった。

店のガラスが割れる音が四つの鼓膜を突き抜けた。

反射的に音のした方に向けられた二人の目に映ったのはおばさんだった。店長らしきおばさんが「あきまへんでえ〜!あきまへんで〜!」と叫びながら飛び出してきたのである。

おばさんは走りながら、二人の一メートルほど手前で一瞬しゃがみ、バネの要領で大きく宙を舞い、男と女の間にちょうど、すたっと降り立った。

「あきまへんでえ、あきまへんでえ、女の子いじめたら、あきまへんでえ」
「なに、なんだお前は!今俺はこの生意気なクソ餓鬼をこらしめてんだよ!」
「こらしめる?まじ、やばくね?むしろ私がおめえみてえな残念なおっさんに色々教えてやってんだよバーカ」
「あきまへんでえ、あきまへんで、あたいは女の子守るでえ」

二人の言うことには一切反応せず、目を閉じたままおばさんは同じ言葉を繰り返している。あきまへんでえ、あきまへんでえ。

自分の店の扉を破壊しておきながら、今目の前で静かに同じ言葉を繰り返すおばさんの狂気にやっと気がついた男は直感的にその場から逃げ出そうと踵を返したのだが、おばさんは逃さない。腕を掴み、また繰り返す。あきまへんでえ、あきまへんでえ、女の子をいじめたら、あきまへんでえ。もう終わりだという掴みどころのない諦めが男の身体を乗っ取った。

「あきまへんでえ、て言うとるやろがあああああい!!!!」

一つ隣の市まで届くほどの大音量で咆哮した店長は、皮膚がめり裂けるほど勢いよく開かれた目から強烈な閃光を放出した。

「あちい!あちい!ぐわああ!!」
「あきまへんでビーム!あきまへんでビームやでえ!」

閃光によって焼け爛れていく男の顔面を女はじっと見ていた。

黒焦げの顔面、夜、アスファルト、黒スーツ、黒革靴のそれぞれが協力しすっかり全身がアスファルトと同化していた。男はぴくぴくと痙攣している。

「あんた気いつけなあかんでえ!えらい細いなあ!ご飯しっかり食べなはれや!ほなな!」
女の肩をばしっと叩いた後「万事解決ゾロリ♪万事解決ゾロリ♪」というオリジナルソングを歌いながら店に戻っていく。

「あの!おばさん!!」

今までで一番大きな声で女が呼び止める。

「なんやのん!」

「今の一部始終、インスタのストーリに上げてもおけまる水産?」

「あきまへんでえ!」

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