都合よくいくわけないよ
わたしはママ時代が長すぎます。未だに20歳以下の子がいる。早くたくさん子が作れたら、うちみたいに(わたしはほぼ年子三姉妹)楽しいだろうと、結婚した直後は考えてました。。
それが現実じゃなかったということです。
子供が15歳も年齢が離れてるということは、その間に壮絶な色々があったわけです。
上の子でもようやくできた、2年はかかってるから。なら3年くらい離れた下の子が、なんて考えてたわたしはとても甘かった。
もともと子供がいらないと言っている夫、親戚は産め産めうるさい、の場合、わたしが親戚に悪者扱いされるわけです。
それは、わたしの夢ややりたいことにまで迫ってきました。
全てのことをやめさせて、育児以外の趣味は一切しない、そこまで言われたっけ。
当時50人くらい友達がいて、楽しく遊んでいたら全員と縁切りしろ、って平気で言われました。
〇〇家の嫁だから、言うこと聞かなきゃダメな嫁。
つい30年前は、そんな時代だった。今こんなことしたら、誰も嫁になってもらえないだろうな。
友達からも、たくさんの子供と写ってる写真が送られてきた。泣きそうだった。わたしの味方は、誰もいなかった。
2番目の子供が欲しいのに、何年たってもその気配はありません。
そもそも、数ヶ月に一度くらいじゃなかなか出来ないでしょ。
こんなこと相談することも誰にも出来ないし。結局、仕事に就くことになった。
嫁としても母としても全くダメ、と烙印を押され、ひとりで仕事探しをした。そこで、出会った人たちがあまりにも優しすぎて。わたしを嫁という道具として見ない。仕事をきちんと認めてくれる。
嫁に行った先がわたしには合ってなかった。でも離婚なんてしたら、確実に子供は取られてしまうし、わたしの住む場所も提供してくれないだろう。子供と離れたくなかったので、必死で仕事をしていたら、お金も、友達も、やりたかった仕事のオファーも手に入れた。
しかし、次の仕事場が合わず、数年で離職。しばらくフリーランスで、昼は野鳥観察、夜はイラストの仕事をしていた。
この辺りではもう、子供も諦めていたように思う。しょっちゅう東京に遊びに行ったりしていた。
21世紀になり、さすがにそろそろ健康な子を産むには限界が近づいてきた。急に焦り出した頃、二人目ができた。
義母や周辺の人は既に故人。誰にも祝福されることがなかった。さらに、妊娠中毒症にかかって、動けなくなってしまった。
子供をヤングケアラーにしてしまった。一日中ベッドでうなっていた。このまま、子供が産まれても、ずっとベッドのまま。体が動かない。さらにパニック障害にかかってのたうち回る。保育所のお迎えは行ったが、途中倒れることもよくあった。
子供は発達障害認定、わたしと子供同時で闘病生活になっていた。
こうなったら、もうこれ以上の子供は無理だし、生きるだけで精一杯。何かしようと、動いた時には10年以上過ぎていた。
下の子が小学校の頃、子供の友達のお母さんに会って話した。
なんでも、その子は不慮の事故で体が動かなくなり、2年間も一人で学校に行けなかったらしい。
そこへきたのがうちの子だという。おかげで自分から学校に行けるようになった、ありがとう、と言われましたが、それはその子の頑張りに運良くうちの子が出会っただけだよ。
うちもわたしまで病気で動けなかったし、子供が特別教育を受けてくれたおかげで、一般人並になったのだから、すんなりここにいるわけじゃない。
その子とは時々会うことがあるらしい。会って近況報告しあっているそうだ。
下の子は面倒見がいいのか、あちこちでつまづいた子に手を差し伸べている。この間も、保育園から高校まで一緒だったのに、卒業名簿になかった子がいて、その子の家に事情をさりげなく聞きに行ったそうだ。
活発な子だったのに、どうして、と思うけど、さーいまから留学じゃーという時に、突然、全てダメになってるのだから、人によっては止まってしまうだろう。
今は前を向いたらしいので、頑張って欲しい。
同級生にいじめられて自ら交友関係を切った上の子と真逆な子。
発達障害認定されても空気を読むことができる下の子。
一応子供はいるけど、やっと出来た子なのだ。うちの場合、出来なかったら今頃わたしはここにはいないだろう。
計画では、早めに子育て終わって、またみんなで遊ぼうって言ってたけど、みんな誰も連絡してくれないじゃん。
結局、子供がいつできるかなんてコントロール不能なんだから、またあとで、なんてない。切りたかったのか。ならわたしは、新たに友達を探すよ。
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