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安全は作らなくちゃいけない

昨日記事を書いている最中、例の件があったわけですが、敢えて触れず書ききって投稿しています。
わたしの作品の性質上、公のアカウントで不安な情報に触れることは出来ません。

このnoteアカウントは、そこから少し離れないと書けないことを書いていますので、あえて書いてみたいと思います。

昔はもっと気にしていた

上の子にその話をしたら、「昔はもっとバリケードあったよね」

そう。わたしも小泉純一郎元総理の演説を偶然街で目撃したことがあるが、元総理が演説していた場所は、商店街のアーケードを後ろ盾にしていた。反対側の大丸側から演説する方がみんなに見える筈なのだが、あえてそうしていた理由はある筈だ。

当時は震災とかオウムの件があって世間が相当ざわついていた。2000年代くらいは、不満因子がすごかったので、地方議員でも対策はしていた。地元の議員演説なんて全く近寄れない状態だった。

正直、発砲事件など起きる地域にいると日本だが安心など存在してない。ここは通るな、とか地元民の暗号みたいなのがある。通るとしても、止まらない。

握手して手に何か仕掛けがあるかもしれないから、知らない人と握手しない。

こういうルールは地元にいないと手に入らないので、下の子を有名な遠くの学校に行かせるのを猛反対して、地元の小学校に入れたのだ。相手はもっと治安のいい東の方の出身なので、自分の子供の頃住んでた地域に通わせたかったようだが、今住んでる場所はローカルルールがかなりある。

実際入ってみて、あの時代よりはずいぶん穏やかになっていたが、やはり「ここは通るな」「あいつには近づくな」ってあるみたいだ。下の子はしっかり身に着けて、今は離れた所の学校へ通って、本来のスキルを豪快に吸収している。

人は将来、家族を体を張って守らないといけないのは、たぶん後の世でも共通だろう。そこを学んでいないと、守るべき人を守らないひとになってしまう。

人間として大事なのは、大切な人を守る方だ。命だ。何が出来るかはその次。

他人を攻撃する人には絶対なってほしくなかったから、スキルよりルールを選んだ。

他人を攻撃してはいけない。どんな手段でも攻撃してはいけない。
本当、すごく思う。自分が気に入らないからとボコボコにしていいと思ってる人がすぐ近くにいるからだ。

この現象を心理学者が自分のシャドウと言って、それを言わせてるのは自分だと言う論があると聞く。とても心がざわつく。自己受容は、加害者が武器を持って立ってるうちは、やっちゃダメだ。
意識改革して、相手の攻撃がよけいひどくなる可能性が高いからだ。

わたしはなぜ、相手が攻撃してるのか知っている。いま、相手の欲しているものは、もうないのだ。2000年にわたしは、そのスキルを手放した。そうとう苦しんだが、あきらめたのだ。
いない人を探して襟を鷲掴みにしたって、もうないんだ。ありのままを受容しないといけないのは、わたしではない。

ハンドメイドに安全というイメージをつける

手製ということは、ハンドメイド。ものづくりをしている人としても悔しくてたまらない。

安全であると思っていただくため、どれだけ勉強したり努力してるかわからない。
作品の性質上、子供が触るため、子供に怪我をさせないよう、安全に加工する。
ハンドメイドで加害にならないよう、ほとんどのクリエイターが陰で努力している。身につけるなら、アレルギーとか、とがった部分の断面とか、破損しないように、などなど。

手製で加害出来る武器は、中学生くらいでも口コミで知られていると聞くが、実際に使うやつはほとんどいない。

社会の中で生活するのだから、自分が安全であることを証明しないといけない。不満因子は誰でも持つかもしれないが、加害せずに過ごさないと生きていけない。一度安全を守らないイメージが出来たら、もうその社会では生活出来ない。

ネットだって社会で、人が操作するもの。一度信頼を落としたら、どこかに記録されてしまう。文字が人の安全を脅かさないよう気をつけていたい。

次こそ面白い記事書きたいわ。

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