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誰の人生も大切でしょ

わたしは父を介護し見送るまで、しばらく宮城に帰っていました。

私が病気になっていることは妹しか知りません。
介護施設もピリピリで、面会自体が大変。機嫌を損ねると、靴を放り出され出て行ってといわれたことも。。
あまりの扱いの酷さに体調崩してしまい、数日面会に行かなかったり、帰り支度をしていたこともありました。

結局、父が旅立ちましたので、手続きやら何やらして、見送りました。
その後、パートナー到着。つまりほとんど何もしておりません。参列しただけ。

帰りも先に帰ってしまい、私は妹とゆっくり昔の話をして、フライトの手続きに。その後、激しい発作に襲われました。何個薬を飲んでも治まらない。

飛行機は平気だったけど、救急車呼ぼうかと思う程ふらふら。

しばらくは、弔いの意味も込めて何もしないことにしました。こちらの法事も断って、休みました。

そこへ突然の、パートナーの自宅改装の話だったのです。

まだ弔いは済んでないぞ?
私の家族を何だと思ってるんだ?

私は2歳から20歳まで、この町で育ちました。
父は厳しかったけど、愛を込めて私たちを育ててくれた。無茶も言われたけど、愛は一貫してた。
特に母への愛は全くブレることなく、母が出来ないことは全部私がするという(なんでやねん)謎もありましたが、母に降りかかる災難は父と私たちで守りました。

それでも、病気には勝てず随分若いうちに旅立ってしまいましたが。

少なくとも私は、学校時代みんなに守られていた。たまにいじめるやつもいたけど、すぐに大人に見つかり怒られていた。
街のひとに守られ、憎しみを知らないまま、街を離れた。

パートナーは私のいうことより、周囲のこととお金ばかり優先する人でした。私は「ワタシ」でなく、「オンナ」でした。

自由もなく、何か私がやらかせば、そらみたことかと罰ゲーム。仕事も結局お金を使い過ぎたと言われ、返すために始めたのです。おかげで子供がいじめに遭っていたのに誰も守られず放ったらかしだったそうです…
私の父がそれを聞いたら、飛んできてパートナーをぶん殴るよ。

私は嫁に来たというより、軟禁されに来たような感じでした。
早く気づいて、早く逃げて、って今の私なら言うよ。やりたいことなら、仙台でも充分叶えられたじゃん。

心が壊れてもしばらくは、私が間違えていることに気づいていませんでした。
そしてこの無茶な弔い中の話により、私の心はさらに壊れ、間違いにようやく気づいたのです。

でも、もう逃げる場所はありません。

仕方ないので、今更解決策を探して色々な本を読んだり、ブログを読んだり。でも「私がいじめやすいから、相手は怒鳴ったりする」というのには、どうしても納得がいきませんでした。

「私はどうすれば幸せになれるのか」なら少しはわかる…。
でも、自分が悪くないのに「弱そうに見えるから、自分の身の振りを変える」というのは、いじめを公認しているみたいでいやだ。ただ、話す回数はめちゃくちゃ減らしました。
私の言葉で揚げ足を取るのなら、喋らない方がまし。確かにそうですわ。

数日で、パートナーは家の片付けをめちゃくちゃするようになりました。

私は、私を人として扱ってほしい、そして私を生んだ人を弔い、1年か2年くらい、そっとしてほしい。何故自分の母は弔うのに、私の父は弔わないんだよ。そんな事さえ聞いてくれないパートナーなんて、人としてどうよ。

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