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時空を超える自己:存在の無限展開

誕生

わたしはどこから生じるか

それまでは物質の延長でしかなく、物理、化学、生物学的な反応を示す物体であった。
環境に大きく左右される物体から変化して、次第に環境と隔った部分で環境とは独立に振る舞う反応が多くなってくる。
その結果、環境を総合的に捉えることができるようになり、光の刺激を一連の像として広げ、そこに音や匂いがマッピングされ、その情報を眺めながら過ごす。
長い時間を漂いながら、次第に解像度を増していく情報の景色に、自分という存在を自己の感覚器で認識しはじめることができた。
情報の景色が一つの世界であり、この世界のことを<自分の名前>という音で表されることを知り、それが自分にとって全てであった。

そんな世界にたびたび大きな影響を与える存在に気が付き、その存在もまた自己の世界を持つと知ることになる。

成長

わたしは何か

解像度が上がる世界。
人類という単位でみると学問や科学により知識や知恵が体系的に蓄積され、個人として認識できる世界が拡張する。
学校で先人たちの叡智を学び、地域の年長者からその土地についての情報を学ぶ。
現在を起点に過去の情報を知ると、未来への変化を予測することができる。
自己の世界の解像度が上がることで、適切な振る舞いができ、自己の世界の平穏を保つことができる。
個人差は大きいが、人類としてそのようにプログラムされているようだ。

自己に影響を与えるもののなかで他者の存在があり、他者は自己と類似した世界を持つことを知る。
それぞれの世界が同じ仕組みで成り立っているのだが、他者の世界を正確に把握することができず、自己の世界と他者の世界で何度も軋轢を生じることを経験する。
すると、他者の世界を含む周りの環境を知ることが自己の生存戦略として大きな関心事となる。

自己の世界がどこに向かうか?
自己を起点に世界を拡張して見通しを立てたい。
自己を限りなく客観的に、限りなく主観的に捉えることで、何が起きるのかみることができるのではないかと考える。
また視野が広がると、生態系レベルの大きな変化が突発的に自己の世界が崩壊することが起きるうることも知る。
知らないことに恐怖を感じるのである。

拡張

わたしはどこに向かうのか

細胞一つ一つの生死に関心を払ったことはほとんどない。
それと同じように、生態系は個々の生物に意識を払っていないだろう。
ユクスキュルは対象の生物についてもその生物からみた主観的な世界について論じていたが、そのような視点を複数の生物を含めた上位の階層である生態系へと拡張できるとすると、地球全体を一つの生命体として捉えるガイヤ理論が想起される。
原子-分子-高分子-細胞-個体-超個体-生態系-地球といった多くの階層で生じるフラクタルな現象といえる。

一流のスポーツ選手は一般の人が認識できない多数の情報を収集して統合的に分析した上で自己の筋組織に情報を伝達する。
その際、当事者としては一連の動作はゆっくりと感じていると証言する。
しかし周りから見るとその選手は正確かつ高速に動いている。

もし世界の解像度を極限まで上げることで自己の世界を十分に拡張できたとすると、時間感覚も無限へと拡張できるかもしれない。
このような衝動は、2020年の新型コロナ感染症蔓延をきっかけに、人類がメタバースという世界を作りはじめたことと同じベクトルであろう。
また古の修行僧が瞑想により到達することを臨む「悟り」の境地は、没入感による無限時間感覚なのかもしれない。
物理空間の制約から解放された世界の存在は、自己の世界の中で作ることができるようだ。

証明

わたしのなかの記憶

記録は物質的に存在しており、記憶は不定形で何らかの関係性の上に成り立っていると考える。
実際に、記憶は特定のニューロン集団という形で脳内に形成維持される。
すると、個体レベルでは、自己の記憶が失われ、他者の記憶から自己の情報も失われると、自己のアイデンティティは完全に消去されたことになる。

それでは、上位の階層での記憶とはなんであろうか?
人間個体にとっての記憶と細胞レベルの記憶ではその情報量や複雑性が異なり、上位に行けばより複雑な回路としての記憶を保持できるようになる。
おそらく生態系とは生物個体の記憶をゆうに超えた複雑な情報を記憶として内包するのであろう。

生態系の中では、個体の生死により群集が循環する。
個体としてアイデンティティが完全に消失し、別の個体が生じることが循環であり、所属する生態系のアイデンティティの維持に必須である。
もし生態系の循環を無視して存在する個体が存在すれば、生態系にとってリニューアルできない「循環できない忘却」となり、アイデンティティの喪失を意味するのだろう。
この象徴が「タネのないアボカド」である。
一方で、自然が示す循環や周期性は自然の記憶の断片であり、これらは人間個体にとって美や安心を想起させ、人間もまた自然の一部であることを思い起こさせる。

調和

わたしというアイデンティティを分有する

個人にとって、アイデンティティを非自己から守るため、自分に向けて発するシグナルとして感情があると仮定するとどうだろう。
人間は自然の一部として存在し、そこに一致すると嬉しいという感情が、ズレが生じると悲しいというような感情が生じ、このような感情の変化によって無意識のうちに行動が誘導されているのかもしれない。
植物などの自然と触れ合うことで生態系の記憶を辿って、自己の世界を調整することができるのかもしれない。

このような考え方は我々人類の多くが日々抱える人間関係の問題の解決につながるかもしれない。
共感という種類の感情によって、他者の中に自己が開かれていくという感覚を作り出すことでコミュニケートできれば、すなわちアイデンティティを分有することができれば、私という世界が救われるのかもしれない。

人間はどうしても線を引きたがる類の生物のようだ。
もともと線を引いて生じた自己の世界である。
ただ本当はそこに線は存在せず、無限に広がる一つの存在なのである。


〜解説〜

こちらのエッセイは、2022年に開催されたKYOTO STEAM2022国際アートコンペティションに参加した直後に書きました。
芸術家・川松康徳さんとの対話を通じて、自己についての考えを自分なりに言語化したものになります。
あれから2年間の時を経て、自身の研究を進めながらも、宗教から脳・AI研究など幅広い分野の書籍を読み漁り、また異分野の研究者との議論で自身の考えを深めてきました。
2年間の知識・思考をアップデートした今、改めてこのこのエッセイを読んでみても、ここで表現された世界観は色褪せるものではないと感じています。

今回の議論をまとめているとき、ある一人の人間が生まれて成長する過程を通して、どのようにその人にとっての世界が変遷していくのか、時間軸で議論の内容を精査しておりました。
解像度という言葉については、「対象に対してではなく、わたしたちの認識が作り出すもの」として使っております。
そのため、ある人が認識している世界はその人の成長を通して次第に詳細になっていき、その行き着く先はその人個人の独自の世界となっていくと考えています。

一方で、自分の世界の固有性が増してくると、他人の世界との違いにより軋轢が生じやすくなり、苦しみが生まれます。
実際に人間関係は多くの方が抱える様々な問題(個人の問題から社会的な問題まで)の根源になっているのだと思います。
その軋轢の救いとして、自分の意識がある階層より上位の階層にある秩序と調和すること;生態系にある記憶と調和すること;他者とアイデンティティを分有すること;そこに諸問題のソリューションがあるだろうというのが今回のアート作品の背景で行っていた議論の結論になります。

当時の様子です:https://pms.brc.riken.jp/ja/archives/677


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