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星新一作品感想「はじまり」「くさび」「はい」

デニーズからスマホ入力で書いています(笑)
写真は原宿の紅茶の美味しい喫茶店(♪)ですが(笑)

面白おかしくて読みやすいショートショートを多数書き上げながら、星新一作品を包括的に検討するという試みは極めて少なかったように思えます。

この度、浅羽通明氏がこの数少ない試みに挑みました。星氏の恐るべき予見力はある程度当然のこととして私たちにも了解できるものの、星新一は実は「アレ」だったのではないかということや、星新一の作品に小説さが感じられない理由などが書かれており、読了していないものの、その構想の壮大さはさすがというべきで、新刊が平積みされている今時点で紹介しておきます。


そしてまた、私も浅羽氏の上の著書を読んだ上で読んでみた星新一の作品のうち、三作品の感想を書いてみたいと思います。バッテリーもないので、粗々しいまとめですが(笑)

【胡蝶の夢とワクチン 「はじまり」】

本作を読んで胡蝶の夢という言葉を思い出した。
ポケットから空飛ぶ円盤を取り出すことが自明になっていて、それをおかしいと思うエヌ氏も病院の医師も、実は夢から醒めたら、空飛ぶ円盤をポケットから取り出せないということに、驚くのかもしれない。

そういう意味では相対化を推し進めたものかもしれないけれど、星新一のショートショートには現実と非現実の混同はよくあるし、「はじまり」というタイトルからすると、94ページの終盤にエヌ氏の独白である「原因の追求や解説などできっこない。流行にはさからわないほうがいいのだ。他人と論理的に検討しあおうとしたって、むりなのだ」という一文に力点を置いて読むべきだと思った。

私には、昨今の感染症騒ぎにおける騒ぎを思い出させる作品でもあった。自粛警察が現れたり、PCRやワクチンへの懐疑についても、ネットという空間以外では、表立って言えなくなってきていると思うし、そのように言えば、陰謀論として一蹴されることすらある。そのような日本的世間や同調圧力に対抗することへの諦めを示唆しているように思えた。

マスクを付けて飲食店に入るけれども、いったん、席について飲食を始めれば、マスクなど不要になる。パーティションすら無いお店もある。
これらもよくよく考えてみると変だと思う、まさに円盤のごときものだと思うのだけれど、そのことについては、流行なのだから、逆らわない方がいいし、論理的に検討し合うことは無理である、ということを今の社会に引き寄せて考えてみた。
とするならば、非常に旬で今様な作品なのかなとも思った。


【面倒を避けて不条理にも従う 「くさび」】

従順さと面倒さに基づく、人間の消極的な適応の過程について描かれている作品であると一読したときにまず思った。抗議や離婚をするといった面倒で手数のかかることをとことん避けて、とにかく、今展開されている状況に流されている夫婦の有り様がその象徴の一つである。

己の正常さ(妻はあくまで想像妊娠したに過ぎない。産まれたという男など見えない)を捨象し、妻や女医たちの異常さすらを許容して、やがてそれに淡々と従属していくままに生きていく様は、従順さが生まれる状況をつとに描いているとも思える。わかりやすい解釈とは思うけれども。

また、とにかく面倒を避けようという人間の有り様を象徴しているように思えるのが、正常側(?)に思える開業医であり、
妊娠と診断している女医をなんとかしてくれと夫は願うものの、開業医の言葉254ページにあるようにまことにつれない。即ち、「弱りましたな。してあげたいが、どうもぐあいが悪い。おたがい同業者でしょう。その意見に公然と横やりを入れるのは、私としてはできません。立場を察してください」という言葉に象徴的である。

どちらが正常なのが異常なのか、或いは正常と思える自分こそが異常なのではないか、という相対化の視点からも読めるとは思ったものの、星新一の作品にはそうした視点のものが多いので、「くさび」に特徴なのは、やはり、従順さと面倒くささなのだと思う。夫が出生届を出すときに、想像妊娠の挙句の出産などということを言って、面倒がるのもその例だとは思う。

ただ、夫が事故に遭って死んだ後に婦人警官が述べた「うらやましいですわ。ほんとにすばらしい。あたしもこんな坊やの母親になりたいわ。なってみせるわ。なれそうね」という終わりの箇所の解釈がどうにも分からず、また「くさび」というタイトルが意味するところもいまいち掴めなかった。くさびになっていることがわからないことがくさびなのかもしれないとも思った。


【自力による安心も他力による安心も変わらない 「はい」について】

「はい」については、まず初めに主体的に生きることの面倒くささや諦念のようなものを、一読した時点では感じた。

主人公は若い頃こそ、イヤリングの声にすべて従うことに対して疑問や憤慨の念を多少はもっていた。
しかし、安心や無事、平和に過ごせるという生き方への保証に屈してしまい、主体性を放棄してしまう。表層的にはそんな話のように読めるし、幸福も不幸も全ては相対的であると大局的に俯瞰することもできるとも思った。

だが、別に思ったのは、人間は運命というものに対して逍遥とする他なく、そのことに対しては、善し悪しで判断する事柄でさえもなく、ただそういうものなのだという諦念の境地へのいざないのようにも感じた。

イヤリングそのものは高度な計算結果に基づくものとはいえ、主人公のすべてに関与する、神の如き存在であって、ゆえに、死ぬことすらも指示というか命令というか、予測の元に主人公に告げる。イヤリングは別の主体性の象徴なのか、もしくは主体性放棄の象徴なのかがわからなくなった。

これに対して、主人公は自分の生まれてから死ぬまでをすべてイヤリングに仮託することにまったく抵抗がない。ただ、「指示に従っていさえすれば、考えることも不要で、あやまちを犯すこともなく、すべて安心なのだ」と死ぬ間際になっても、イヤリングの指令に従うけれども、そこには考えることの面倒くささが極限まで広がった姿が垣間見られる。

けれど、主体的に考えてすいもあまいも感じるくらいなら、イヤリングによって、安心の境地に至る主人公のような生き方もありだとは思う。私たちは悩み事を解決しようとしたり、ある人たちは煩悩を捨てて解脱しようとする。安心立命を求めて。そうした人間の自力とイヤリングによる他力による安心に至る道というのはどちらも変わらないのではないかと思った。

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