成田空港と同調圧力
日本は戦後になって民主的な法治国家になったといわれています。たしかに、自由に情報を発信したり、しゃべることもできます。ただ、近頃はある特定の言葉を否定的に用いたり、否定的な見解を設けると、例えば、ネット世界であれば、バンされたりするということがあります(これは日本だけの現象ではないのですが)。私なぞは崇高なるジャーナリストでもないので、それらをあからさまにしていくという作業はしません。が、故山本七平も構造分析した同調圧力(それを「空気」と彼は呼びました)が強くなり、また国民もそれに従順だったりする点については、昔から不思議でした。
ある意見が絶対的なものとなり、その意見に従わないものは排除されます。そこで、皆、その絶対的なるものに従うわけですが、その意見の消費期限というものは非常に短く、不思議なことに消費期限が切れると、皆、夢から覚めたように絶対的なるものに従順で、マイノリティに不寛容であったことを、まったく忘却していたりします。
ゆえに、大東亜戦争後も誰が責任の主体なのかが明確になりませんでした。坂口安吾などはそうした無節操さや無責任さが許さなかったのでしょう。「続堕落論」(『堕落論』新潮文庫に収録)において、強い口調で「嘘をつけ!嘘をつけ!嘘をつけ!」と三回連呼しています。
成田空港が開業するまでに武力闘争があったことを知る人が少なくなってきました。私も子供の頃にテレビで時折みたり、成田近辺で厳しい検問にあったくらいです。いや、それくらいにまだ闘争の炎は消えることがありませんでした。現在でも完全に闘争が終了したわけではありませんが、もう実質的に収束したとみて良いのかなと思います。
しかし、収束することが全面的によいのかということになると疑問があります。機動隊と地域住民(開拓を推奨していたので、外部から来た人が多かったといいます)との争いは少なくとも20世紀の後半まで活発であったのです。まだ、歴史的事件とさえ扱うのもはばかれるほどに、タイムリーな出来事のようにも思えます。
当時はマルクス主義を信奉する人たちが多く、こうした闘争を煽った人たちがいわゆる左派であり、例えば、毛沢東語録を手にしていたという話も聞きますし、成田空港建設をいい機会に、革命的運動を起こそうとした側面も真だとは思います。しかし、特別立法で家屋を接収したりしたことがあることもまたたしかですし、住んでいた家々を強制的に手放された人たちが多数いることもまた真です。
三里塚で住民側を訓練する映像を見たことがあります。竹槍で突きの練習をしている場面が出てきて、いささか驚いた記憶があります。大東亜戦争のときと変わっていないのだなと。むろん、近代的装備が最善とも限りませんし、普段は闘争などしないような人たちに火炎瓶を投げるよう指示するというのは強引だと思います。しかし、住民たちはたしかに(全員ではないにせよ。そして、空港建設に賛成した住民もいたにせよ)竹槍級の武装力で特攻し、ときには要塞を設けて城と名付けて立てこもっていたりしたのです。ずいぶんと荒々しいと思いますか。でも、江戸時代のお話ではないんですよ。戦後になり、もはや戦後が終わったという言葉で有名な白書が出されてからの話なのです。
ここでも、賛成派と反対派との対立があったといいます。また、冒頭で述べたような圧力により、反対を表明せざるを得なかった人たちもいたでしょう。当時は反権力が主流の時代でした。ネットで匿名を担保されながら、忖度した言論を書くという時代ではありませんでした。マスメディアは別として。
成田に空港を建設した理由(当初は浦安や木更津といった案もありました)の一つとしては、羽田空港のキャパシティ不足と騒音問題にありました。都会に位置する羽田では発展の伸びしろが期待できなかったのです。そのために成田が候補地として選定され、成田新幹線構想すらありました(国鉄の財政赤字等が理由で立ち消えましたが、北総線とそれに沿って走る幅広い国道にその残滓を見ることができます)。一方、成田では開拓移民が多く、国もそれを奨励していたという歴史があります。たしかに、空港建設で代替地や補償金が出るなら喜んで家を明け渡そうという人も多いでしょう。実際に多かったそうです。しかし、それを好まない人たちも必ずいるわけです(今の注射の問題に似ていますよね)。そこに、左翼運動が加わって、現在では想像もできない大闘争が繰り広げられました。死者も出ましたし、抗議自殺した人もいました。
成田空港が日本の玄関口として発展していくことに異議はありません。しかしながら、その過程において行われたことも伝えていきたいと思います。それはむろん、偏見で覆われたものもあるでしょうが、それをいうのであれば、インターネット自体がもはやどれが正解か否かという二分法では割り切れないどころか、玉石混淆状態ですし、私は基本的に絶対的な客観性というものはないと思っています。
そういうこともあり、過去のことを無謬にとらえることは不可だとは思いつつ、さしあたり、成田空港建設においては(建設後も)、無数の闘争があり、国家もかなり荒っぽいことも行なわれたということを述べておきます。そしてその上で私たちの利便がのっかっているのです。そのことは覚えておきたいです。今一つは日本的空気の特徴で三里塚闘争という比較的新しい時代の出来事なのにも関わらず、忘れ去られてしまうことで、責任主体があいまいとなり、なし崩し的に現在に至っているということも申し上げたいと思います。現在、緩和政策なるものを打ち出し、接種率を高めようとしています。パスポートの導入も検討されています。
そもそも、選択権が担保されていたのにも関わらず、今ではやむを得ず接種しない人たちのことは看過され、もう少し様子を伺いたい人たちやどうしても打てないという人たちに対しては、一刀両断で反対派だとか陰謀論に犯されているというレッテルが貼られています。これぞ、同調圧力が膨張しつつある日本の歴史的周期通りの出来事で、五輪同様、すぐに忘却されるのでしょう。大反対していたけれど、やはり開催してよかったなという具合に。むろん、個人の意見が変わることはいいと思います。が、自己を絶対視してそしてそのことに無自覚であるということが往々に見受けられるような気がします。
成田空港建設反対運動においては、個々の選択が尊重されたような気もしますが、実際のところはわかりません。ただし、多大な犠牲の折々を忘却し、何事もなかったかのように泰然としている姿勢は、いかがなものでしょうか。犠牲となった人たちの魂はいつまでも浮かばれないと思います。また、現在においても、マイノリティと転じてしまった人たちの魂は深く傷ついていると思います。歴史は繰り返すという凡庸のように思える言葉がありますが、こと日本においては、何度も何度も同じようなことを繰り返しているような気がしています。
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