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「治すのは難しいかも知れないね」〜うつと通院〜

どうも七谷くとです。今更ですが一応苗字は「ななや」と読みます。「78910」でななやくとです。

気になったら病院に行こう、怖くないから

現在うつの治療で心療内科に通っている。
通院している病院は予約不要で、いつでも行ける安心と引き換えに、混むときは半端じゃなく混む。土曜の昼間は特にカオスだ。MAXで三時間ほど待った。これでは先生も大変である。
最近はちょっと私も学んで、受付で待ち人数を確認してから、多かったら受付の方に断ってしばらく外に出ている。近くの本屋に足を運んだり、その辺を散歩している。それはそれで億劫だが、ぎゅうぎゅうの待合室でじっと待つよりはマシだ。

この話を人にすると、大抵、そんなに待つほど心療内科にかかる人が多いのかと驚かれる。私も最初は驚いた。その上、市内には他にも沢山メンタルクリニックがあるわけだから、きっと私の想像の何倍も、もしかしたら何十倍も、心療内科の患者は多いのだ。

何が言いたいのかというと、心療内科にかかるのは、決して特別ではないということだ。

皮膚科や眼科、内科に比べ、心療内科にかかるのは何となくハードルが高い。実際私もそうだった。ちょっとお腹の様子が変だとか、ちょっとした発疹が治らないだとか、鼻炎がキツくて薬が欲しいだとか、そういう理由なら比較的簡単に私は病院に行く。けれども、最初に精神の違和感を覚えたとき、私は自分に対して、「この程度のことで」「もっと辛い人はいる」「私はまだまだ大丈夫」「私ごときがストレスなんて受けるわけがない」「病院に行くほどではない」と言い聞かせ、違和感の一切を無視した。いっそ努力してまで無視した。結果はこの有様で、私は現在、毎日の服薬が欠かせない状態にある。

だから、もしここを読んでいる人が、自分の状態に対して少しでも違和感を覚えているのなら、早目に病院に行ってほしい。ネットによくある「うつのチェックリスト」を見て、「私は全ての項目には当てはまらないから大丈夫」とか、「当てはまったけど私のこれは甘え」とか、「このくらいのこと、みんな辛くても頑張ってる」とか思わなくて良い。むしろそういったものを検索してる時点で既になりかけの鬱かもしれない。我々はお腹が痛ければ病院に行く。皮膚が痒ければ病院に行く。同じように、心がひび割れたかもしれないと思ったら、病院に行くのだ。

何も難しいことは無い。腹痛で病院に行ったら、なんてこともなく薬を一回飲めば治ることもある。皮膚にちょっとした違和感があって、多分何でもないけど気にはなるから、と病院に行ったら、悪性黒色腫と診断されて手術になることもある。心療内科も、まずは行ってみなくちゃ分からないのだ。診断できるのは医者のみである。だから自己判断せずに、早目に病院にかかってほしい。怖いことはない。なんら特別なことでもない。誰でも心療内科に行って良いのだ。まずは予約しよう。叩けよ、さすれば門は開かれん、である。

今にして思えば

私が最初に心療内科にかかったのは、記憶が正しければ三年くらい前だったと思う。その後一度転院して、現在の病院に通っている。

何かが悪くなったから心療内科に行った、というのとは少し違う。当時すでに希死念慮とは長い付き合いだった。ただそれが年々酷くなり、仕事や行動に支障が出始めた。そんなときに偶々ちょっとした転機があって、ようやっと通院を始めたのだ。

だから、病院に行き始めたのは三年前だが、症状の発端はもっとずっと前だ。先日、ふといつ頃から鬱らしき症状が自分にあったのかと考えてみたのだが、思い返すに、最初に業務に支障を来したのは八年前だ。希死念慮に出会ったのはもっと前、自律神経が狂ったのは更にもっと前である。

この、最初の症状はもしかすると八年前かもしれない、という話を、先日主治医に話した。結果として言われたのがこの記事のタイトルである。つまり私の頭はすっかり凝り固まって、鬱的思考が定着してしまっているから、元に戻すのはなかなか困難だ、ということだ。

努力不足では無い

はっきり言って、この話をされたとき、私は救われた思いだった。

鬱を克服した人の話などを見ると、考え方を変えた、という話がよく出てくる。つまり自分の感じ方がおかしいことを理解して解消したり、ずぶずぶと思考に沈むほど深く考え込むのをやめたり、物事を良いように考えるということだ。
バスの後ろの席で笑っている人たちは私のことを笑ってはいない。
私が自身に対して死ななければならないと強く思っているのは、ただの私の考えすぎだ。そんな道理はない。
今日もアレができなかったのではなく、しんどくてもコレはできた。
などなど。

上記のことについて、私は別に理解できていないわけではない。
わけではないが、勝手に考える自分を止めるのが難しいのだ。
後ろの席の人たちは、ただ自分たちのことで談笑しているだけだ。理解している。それと同時に、勝手に「笑われている」と感じる自分も居るのだ。「笑われている」、と思いながら、「別段笑われてはいない」、と考える自分が同居している。どんなに笑われていないと理解していても、勝手に感じることを止められない。

なので、私は長らく、勝手に「笑われている」と考える自分が悪いのだと思っていた。
しかし先生によれば、私は治すのが難しく、鬱的思考が定着している。ならばこれは私の努力不足では無い。私の自動で走る鬱的思考は、ただ治療の開始が遅かったがために、消し去るのが難しいだけなのだ。

と、考えたら少しばかり楽になった。
まあ何も解決していないのだが、そういえばここ最近は希死念慮があまり出てこない。出てきたとしても、それは私が悪いわけではないので、気長に治していこうと思う。

こんな感じで大変なので

あれ、鬱かな? と思ったら病院に行こう。

ビールがのみたいです🍺