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ポンコツな私のウツ歴史④マイホーム編

世田谷区の閑静な住宅街に145平米の美しいヴィンテージマンションを手に入れた私。心療内科のお世話になりながらも、廊下の大理石に、夢のモールディング(この場合は天井の回り縁)にうっとりしていました。ものすごくお金はかかりましたし、ネットは東京建物の賃貸タワマンとは違って自分で契約。

この電話回線の申し込みも相当悶着があり、そして夫は荷物の整理に気質上参加できず、ほぼ一人で引っ越しを仕事をしながら完了させました。

■広くなった「宝物の部屋」。しかし夫は。

気質上、というのは、夫が病的な神経質だったため、彼の荷物の整理をすると怒られるという理由です。なので、夫に隠れてダンボールを1日1つずつ開けて、「知らないうちに片付いていた」作戦を取っていましたので、苦労しても感謝なんかされません。

そうやってなんとか人間らしい暮らしを取り戻し、夫には「片付けたでしょ?!」と言われても「いーや?」とスルーして、大阪から私の両親をお客様として迎えました。

新居では、間取りは3LDK。プラス、大きなウォークインクローゼットもありました。私の心算では、着替えはそちらですることになっていました。1部屋はゲストルーム。もう1部屋は、夫の「宝物部屋グレードアップバージョン!」の予定だったのです。

しかしながら、夫は病のせいで、両親が上京してくるときまでに荷解きができず、両親は本来あるはずの寝床がない、ということに。そういう病気は、もしかしたら「前日になってヒョッとやる気が起きる」ということもあり得ます。

しかし、夫が結果的に前日までやる気にならなかったので、よくやっていた「勝手に手出し」作戦を強行したのでした。

それまでも、夫に任せていたのでは何も前に進まないことがほとんどだったので、「勝手に手出し」作戦はよくやっていました。そして、どうやら彼の中では、「妻が手出しをしたならば、ある程度仕方がない」という結論づけだったようです。

しかし、大きな荷物(ソファ)を彼の宝物の部屋に運び込まないといけなくなったわけですから、一人でできるわけがない。なので、両親と一緒に、あらかじめ作っていた彼のための扉付きの棚(空っぽ)に、彼の大事な家電のダンボールの空き箱を入れてスペースを捻出。部屋らしく整えたのでした。

夫は病から、会社を休職していました。しかし、引っ越しにも参加できない自分を恥じる気持ちから(だと思うのですが)、両親が泊まりに来たときは家から逃亡していました。だから、彼に黙って勝手にやらざるをえませんでした。

■じゃあ、離婚しよう

これが、離婚への最大のトリガーになりました。

夫が戻ってきて、部屋を見て激怒。暴力的にもなってきたので、ちょっと彼自身が理解できなくなり、あっという間に離婚することを決めました。それまでも、「離婚したい」とはつぶやきのように言われていたのですが、それが彼の戯言なのか、本気なのかは計りかねていたところもあったのですが、引っ越しと仕事と夫のケア(特段何をするわけでもなかったのですが)に疲れ、「じゃあ離婚しよう」と私が承諾したのでした。

とはいえ、彼の離婚への意思はわかりづらかったので、彼が離婚届を役所から取ってきた、その事実を以て離婚の意思があるとみなしました。私はワンルームマンションに身をうつしました。1ヶ月。その間に彼が出ていく手筈だったのですが、1ヶ月の間、彼は一切引っ越しの作業をしませんでした。

なので、戻ってきた私は彼を家から追い出し、「引っ越しするまでくることはまかりならん」と告げました。

そして、家から放り出された夫は、ホテルを転々とします。実家は都内にあるのですが、「実家は汚くていられない」というのです。しかし困ったことに、ホテルというのは、ルームクリーンが入ります。夫はそれが「本当は嫌」なんだそうで(私と一緒に旅行していたときは、そんなことを気にしていなかったのに)、ルームクリーンを断るのだけれども、普通、ホテルというのは、2日以上ルームクリーニングを断ることはできないそうなのです。あまりにひどく汚してしまうお客がいるからのようです。

なので、そのたびに別のホテルを探す。という生活をした末に観念して「ぼろくて汚い」と散々悪口を言っていた実家に身を寄せたようでした。ちなみに、彼の実家は、確かにボロかったですが、都心の駅にも近く、汚部屋とかいうことではありませんでした。

といったことで、私はひとり、145平米の豪邸に残ることになってしまったのです。

■母の固定観念と夫の気質と

今思えば、夫の神経質は尋常ではなかったし、うちの両親の「家を持ったなら、お客さん用の布団もないなんてありえない」という固定観念も、困ったものでした。母の感覚は、大阪の、もしくは母が生まれ育った愛媛県での話であり、母の「私が東京に泊まりに行っても寝る布団がない」というこだわりが、非常に頑固にありました。そして、娘の私はそれを叶えるための家を買った。それなのになぜ、娘の夫は部屋を片付けないのか。

夫としては、自覚がないながらも、コンディションが悪化している中、私の両親が泊まりに来るということ自体が、プレッシャーになっていたのかもしれません。そしてそこから逃げるお金があった。

取扱注意な夫と、取扱注意な母がいて、2人は特に嫌いあっていたわけではないけれど、どんどんお互いの「これは譲れない」が増えていった結果、破綻したのだと思います。だから、私は彼の病気こそ困りものだとおもっていましたが、それだけであれば、結婚は維持していたと思います。

が、今振り返ると、仮にあのまま結婚生活を続けていても、私と夫、両方に不幸な生活が続いていたのだろうと思います。疲れ切って、つらい、でも、世間のレールから外れられない。

周囲からは何かと期待されています。夫のお父さんは、とある有名企業に勤務していた人なのですが、夫が就職活動で内定したとき、神社にお礼参りに行ったそうです。それぐらい嬉しかったらしい。会社の中とてそうです。社員みんなが、それなりの期待をみんなに対して持っており、辞めるということは、みんなの期待を裏切ることになります。それは「愛」なのですが、ゆえに私たちは痩せ我慢をしてしまっていたのでした。

普通の人ならば、我慢できた試練です。でも、私たちには無理だった。無念に思うと同時に、着々と破綻に向かっていたと思います。

結婚するとき、「あいつはいいやつだけど、変わっているから大丈夫か」と、割と多くの人から言われました。どの人も、彼の気質を心配したのでした。

私もわかっていました。ですが、私は彼を、愛してしまったし、とことんまで行くことでしか(つまり、結婚して離婚することでしか)、それを成仏させることができなかった。

そういうことなのだと、今は思うのです。

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