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竜血の契り ー翼よ、光を解き放て#2

 翌朝。いつも通りの時間にユルクは起きた。
 教会の一番奥の部屋、元々は納戸として使われていた小部屋がユルクに与えられた自室だった。

 三年前、ユルクの父は死んだ。ユルクの父グスタフは流れ者の騎士で、剣の一本と僅かな金貨ばかり、鎧は粗末な鎖帷子くさりたかびらで村に来た。自警団はいるがそれでも畑を荒らす害獣の対処にすら苦心していた村にとって、この素性知らずの騎士は、胡散臭さ以上にありがたさの感情が前に来る存在となった。やがてグスタフは村一番の器量良しを妻に迎え、そしてユルクが生まれた。
 不幸なことに、グスタフの妻、ユルクの母エラは産後の肥立ちが悪く、ユルクが生まれてすぐに死んだ。男手一つでユルクを育てたグスタフも、三年前に魔物との戦いに出ていったきり。遺体も帰ってこなかった。
 両親の死後、ユルクは神父アントンの厚意で教会に住まわせてもらっていた。
「来週には、君も18歳。成人を迎えるのだな……」
 朝を告げる鐘を鳴らしたユルクを、聖堂でミサの準備をしていたアントンが迎えて言った。「どうしたんだ、いきなり」と、脈絡もない話に不思議がるユルク。
「昨日村長が言っていただろう。君もそろそろ王都を見たい年頃だろうと」
「うん。でも、俺は別にそんなでも……」
「そういう気はなくとも、やはりユルク、君は王都を見ておくべきだ。ここよりもっと広い世界を見て、その剣を、騎士の道をどう歩むべきなのか……そろそろ自分で決める年だよ」
 アントンの言葉に、ユルクは曖昧に頷いた。正直、そこまで都に興味があるわけではない。父との、村の人々との思い出があるこの村に骨を埋める将来しか考えていなかった。
「騎士道ねえ……俺は正直、かまくわすき持って畑耕してればいいかなーって思ってんだけどな」
「もちろん、そういう道を選んだっていい。神はどんな道でも祝福してくださる。好きに生きなさい。しかし、好きに生きる前に、より愛することができる人生を選びなさい」
「……へーい」
 説教臭いなという言葉を飲み込んで、ユルクはそんなやる気のない返事をした。アントンは目尻のしわを深めて微笑み、
「ミサまではまだ時間がある。朝食にしようか」
「ああ」
 ユルクは頷き、そして朝食に使う鶏の卵を取りに、教会の裏口へと向かって行った。

 ミサが終わると、ユルクは一度森に入った。村長が陳述書を書き連ねている間に、念のため森で異変が起きていないかを確かめに来ていた。
(昨日感じた違和感。あれは……)
 森の木々を分ける道を歩きながら、ユルクは昨日出くわした大イノシシのことを思い返していた。
(あいつはただ真っ直ぐに、この林道を行こうとしていたみたいだった。ラルフおじさんにさっき聞いた話でも、ともかく森を抜けようとしてるみたいだったとか……)
 罠で妨害しなければ、大イノシシは林道に出ていただろうとラルフは言っていた。南に伸びる林道。そこに出たがったのは――単に南に向かいやすかったからなのではないか?
(昔っから、ウサギやリスみたいな小動物が、キツネやクマみたいな肉食の獣に追い立てられて逃げてくる……ってのはあった。もしかしたら、あのイノシシも同じだったり……?)
 しかし、そうだとすればあの巨大な生物を脅かすような、とてつもなく危険な存在がこの林道の遥か先にいることになる。ユルクは歩みを止めて遠くを見た。青い森の木々のその上に、空と森を隔てるように、険しい峰々があった。 北の山。――その山には、確かに強大な存在がいる。
(もし、そうだったとすれば……いや、考え過ぎか。北の山なんて毎日見てるけど、異変なんて何も見えなかったし)
 ユルクは頭を振って、思い浮かんだ嫌な予感を振り払った。
 ――その時。風がごう、と音を立てて吹いた。
 突風に思わず目を伏せたユルクの頭上から、打つように風は押し寄せる。風の中に妙な臭いを感じて、ユルクは風の中で目を開けた。すると、足元にぐうんと影が過ぎった。太陽に雲がかかったのだろうか。その影は大きく、しかしすぐに去っていった。
(……いや、これは、まさか!)
 ユルクは顔を上げた。しかし頭上には既に影の主は無い。影が過ぎった方を振り返る。空の上、太陽を遮り何かが村の方へと飛んでいくのが見えた。
「くそっ……嘘だろ!」
 ユルクは駆け出した。太陽を遮る巨影。長い尾に角と牙、そして翼を持つその影は、もはや何十年と人里に近寄ってこなかったはずのもの。
 ――竜が今まさに、ユルクの村に降り立とうとしていた。

 全速力でユルクは村へと戻った。
 ――だが、そこにあったのは、もはやユルクのよく知る村ではなかった。
 無惨にも、黒煙を上げて燃える麦畑と家々。数少ない石造りの教会も、尖塔が折れ、屋根も壁も崩れていた。
「神父さん! アントン神父!」
 瓦礫と化した教会に大声で呼びかける。返事は無い。瓦礫の下で何かが燃える音ばかりが聞こえてくる。呆然としかけたユルクだったが、村の中央から突如として響いた咆哮にはっとなった。心胆が震えて冷えるような、圧倒的な強さを主張する声。
 しかし、ユルクは逃げなかった。剣を抜き、広場へと走る。
 敵の姿はもう見えていた。それは、トカゲを数倍逞しくしたような胴体から、コウモリのような翼と蛇のように長い尾を生やしていた。今や書物の中にしか見られない、鋼の鱗と天啓の知恵を持つ生物の頂点。
 ――竜の巨体が、広場を占拠していた。
「……!」
 広場に踏み入ったユルクは、圧倒された。そこには、死と炎が渦巻いていた。家を焼く火が渦巻き、あちこちに瓦礫と、そして人――昨晩、笑いながら宴を囲んだ村人たちが転がっていた。
 ユルクは猛烈な怒りに駆られた。広場への坂道を一足飛びに駆け下り、その勢いのまま剣を振り下ろした。
「……愚かな」
 しわがれた、雷鳴のような声だった。青黒い鱗の竜は、細長い瞳孔の目でユルクを眺め、何の気無しにするりと腕を伸ばした。悠々とした動きは一見するとのろく見えたが、しかし、あっという間に鋭い鉤爪がユルクへと迫った。
 ガチッ! と音を立てて鉤爪と剣がかち合う。その瞬間、猛烈な力がユルクを襲った。踏ん張る間もなくユルクの体は吹き飛び、石畳を一度、二度と転がって崩れた家屋の壁へと叩きつけられた。痛みに息が詰まり、脳裏に白い星が散る。ただ手を払う――それだけの動きで、竜の前では人が紙のように吹き飛ぶ。生物種としての絶対的な差がそこにあった。
「がはっ……!」
 咳込み、地面に手をついてユルクは立ち上がろうとする。しかし、ただの一撃で指の一本もろくに動かせなくなっていた。
(うそ、だろ……あれだけの動きで、こんな……)
 激痛に霞む視界の中で、のっそりと竜が動く。止めを刺すつもりなのか、それともただ、人が深呼吸をするように火の息を吐くつもりなのか。どちらにしろ、ユルクにはどうすることもできなかった。
(父さん、神父さん、村のみんな……ごめん……)
 何のための謝罪だったのか、ユルクにも分からない。無力さの懺悔だったのかもしれない。ユルクは剣を取り落とし、目を閉じようとした。
 だがその時、ユルクの前に何者かが立ち塞がった。竜が動きを止め、ユルクはのろのろと顔を上げた。
「……そ…ん、ちょう……?」
 朧げな目で見ても分かる、恰幅の良い体。村長のデボラだ。
「人間の女……我が前に立ち塞がる胆力、見事……と讃えたいが。もはや長短の差などさしたものではない死期を、いたずらに早めて何とする?」
「竜よ、もはや私の命はこれまで! しかしこの男の命ばかりは助けておくれ!」
「村長、なにを……」
 そんな懇願など竜が聞き入れるはずもない――そんなユルクの考えは、違わず竜の考えだった。
「それを聞き入れ、何の利がある。まとめて焼き尽くせば終いよ」
「……見な! 私が身につけている首飾りを。こんな村に相応しくないような、黄金と紅玉の首飾りだよ! これを捧げる、だからどうか……!」
 デボラの懇願に、竜は轟くような笑い声で応えた。
「愚かな人間の女! 竜が財宝を好むとて、それは取引には使えぬ。殺してむくろから剥ぎ取ればよいのだからな。……しかし、血に塗れひしゃげた宝物は価値が落ちる。いいだろう。首飾り、そしてお前の命と引き換えだ!」
 ユルクは目を見開き、その取引を見た。デボラが己の首から黄金の首飾りを外し、差し出された竜の鉤爪へとかける。そして、まるでその応報のように竜は首飾りを受け取った手と逆の手で、デボラを握り潰した。
 悲鳴の一つも聞こえなかった。ただ、その太く鱗に覆われた指の間から滴る血が、彼女が死んだことを伝えていた。
「さて……愚かな人間の男よ。この血に免じて見逃してやろう。さらばだ」
 竜は最後に嘲笑うように一声吼え、その翼を力強く羽ばたかせた。重鈍な巨体が、ゆっくり宙へと浮かび上がる。ユルクはただそれを見上げることしかできなかった。

 悪態一つ吐くこともできず、そのうちに、痛みと絶望の中でユルクは気を失った。



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