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人は突然、亡くなってしまう

「○○さんが脳梗塞で急逝されました」

月曜日、午前休を取っていた。
朝はゆっくり起きて、コーヒー飲んでテレビ見て今日もやるかーってPCを立ち上げ、メールを開いた1通目だった。

その人とは一年間、仕事を共にしてきた。気難しい人で、世の中にこんなにかみ合わない人いるんだなと、戦争がなくならない理由を考えたくなるほど議論は平行線になってしまう、私とは相容れない人。

ただ、私がカチンとくるようなぶっきらぼうな言い方をしてきたのも、技術的に長けているその人なりの、正しい見解を伝えようとする姿勢がそうさせていたのだと、理解はしていた。いい意味で犬猿の仲、議論が白熱する場面もあった。

仕事の話で何を大げさなと思うかもしれないが、「誰かと繋がることができた」という感覚は私にとっては大切なものだ。


先週から正式にプロジェクトが発足、軌道に乗ろうとしていた矢先の不幸で、私はわけが分からなくなってしまっていた。何も整理できてはいなかったが、とにかく上司へ相談しなければと慌てて電話した。彼はとても落ち着いていて、そして、私に対する最初の言葉は、


直近の作業スケジュールどうしよっか?


壊れた部品を置き換えるような話が続き、彼の声のほとんどは右から左へ抜けていった。プロジェクトにおいて属人化はNG、誰がやっても同じ品質にできるようにして・・・・正論はどこまでいっても正しいままだった。


1時間後。私も人の手配、スケジュールの見直しを始めていた。明日は顧客報告だ、なんて報告しよう、遅延対策をどうしよう、そんなことで頭をいっぱいにしていた。

鏡に写る自分の顔は不気味に口角が上がっていて、なんだか笑みを浮かべているようにさえ見えた。




というのが今日の一日。
その上司にとやかく言うつもりも権利も無いし、自分の倫理観を卑下したい訳でもない。ただ、

「人は突然亡くなってしまうかもしれない」ということだ。あまりに残酷な現実。そして不可避。


最近流行りの映画で「余命10年」というのが上映されてる。とても素晴らしい映画で、こういうのを見て、一日一日を大事に生きようって感動して、言葉を重ね、心に刻み、気持ちよく寝る。しかし、目まぐるしい日々の中、これらの思いが泡のように消えていってしまうのもまた事実。

決して映画が駄作だとか、感動することに意味がないということではなく、


「その人がいる意味」というのは本質的に、構造的に、失うまでは絶対的に理解しようがなくて、そのどうしようもない理不尽を、事前の対処法もなく私たちは「喪失感」という形でしか受け止められない。(死別に限らず、絶交や破局、離婚も同じ話)


じゃあ、大切な彼が明日にはいなくなるかもしれないから、今日という日を最高にしよう!を毎日繰り返し、世界新記録を塗り替え続けるとか不可能だし、そもそも彼がいなくなることを考えながら生きてたらとてもじゃないですがメンタル壊れる。人は(特に私は)、将来の不安というものにとんでもなく弱い生き物だから。

それでも唯一、できることがあるとすれば、その人との思い出を、感情を、記録に残すことぐらいかなと思う。文章でも画像でも何でもいい、あの時感じたものを形として残しておく。しょうもないLINEも、ただラーメンを食べただけの写真も、いつか思い出したときには輝くかもしれないから。

突然来るかもしれない別れに向けて、防災グッズじゃないけと、私達が準備できるものはそれぐらいなのかなと、そんな風に感じてnoteに記録を残してみた。

おしまい


本も読まない、書きもしない、ゴリゴリ理系の駄文にも関わらず最後までお付き合いくださった皆さま、ありがとうございました。コメントも頂戴できたら幸いです!


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