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ツイッターをやめたこと。あるいはコミュニティ疲れへの処方箋/水樹奈々「LIVE JUNGLE」初日三重公演感想

・前置き

2024年6月15日。水樹奈々の夏ツアー「LIVE JUNGLE」の初日公演@三重県営サンアリーナに参加した。

ここのところ7月からはじまることが多かった水樹奈々のツアーとしてはやや早めのスタート。ここから4週末連続で各地を飛び回り(4ヶ所8公演)、7月7日のKアリーナ横浜公演にてファイナルを迎える。一瞬で白熱して、一瞬で消え去る。線香花火のようなライブツアーである。

ということで、本格的に列島の気温が上がってくるタイミングで、我々水樹奈々オタクは一足早い夏本番を迎えたわけであるが、僕としては今回のツアーからひとつ大きな変化があった。それは、

X(Twitter)をやめた

ことだ。
以下、呼びづらいので「X」ではなく、「ツイッター」と書く。

大学生のころからツイッターをはじめて、2024年の頭までおなじアカウントを使用していた。そのあいだ、多少のムラはあれどほぼ毎日開いていたので、10年以上ツイッターを使っていたことになる。

なかなかにぞっとする話である。
僕の31年の人生において、10年以上つづいたことは何かと言われれば、「読書」と「水樹奈々オタク」と「ツイッター」だけである。この字面だけで、相当アレな人生であることが察せられる。

もともとツイッターはやめたかったのだ。
だから年頭所感を記すときも、なかば冗談なかば本気で「今年の目標はツイッターをやめることです」と書いていた。SNSを観る時間があるなら、もっとたくさん本を読み、もっとたくさん映画を観て、もっとたくさんの小説を書きたかったからだ。

そのためにiPhoneの設定でツイッターアプリを1日1時間しか開けないようにしてみたこともある。結果、いちいちウェブからログインしてツイッターを見る変な人ができあがった。

しかし、ツイッターをはじめとするSNSは煎じ詰めれば、「より多くの時間サービスを利用させて、よりたくさんの広告を見せるために存在する」メディアである。

だからこそ、ユーザーのライトな承認要求を満たし、より長く深くサービスに耽溺させるために、「いいね」などのフィードバック・システムが導入されている。この点、Googleの元エンジニアであるトリスタン・ハリスがわかりやすく語っている。

「こいつはスロットマシンなんです」インタビュー開始からまもなく、ハリスは自分のスマートフォンを持ち上げてそう言う。
「スロットマシン? どういう意味でしょう」クーパー(米国のジャーナリスト、アンダーソン・クーパー)が訊き返す。
「携帯をチェックするのは、”さあ、当たりは出るかな”と期待しながらスロットマシンのレバーを引くようなものだからです」ハリスは答えた。
ユーザーが製品を使う時間をできるかぎり長くするために(テクノロジー企業が)使うテクニック集が存在するくらいです

※太字は引用者による

カル・ニューポート(著)、池田真紀子(翻訳)『デジタル・ミニマリスト スマホに依存しない生き方』(ハヤカワ文庫NF)、電子版30ページより

さらにおなじ著書内ではニューヨーク大学のマーケティング学科の准教授、アダム・オルターはSNSがもたらす「行動嗜癖」について語りつつ、「いいね」や「リツイート」などのフィードバック・システムについて、以下のような警鐘を鳴らしている。

ソーシャルメディア・ユーザーは何かを投稿するたびに”ギャンブル”をしているようなものだという――”いいね”(あるいはハートやリツイート)をもらえるか、それとも何のフィードバックもないまま放置されるか。前者は、あるフェイスブックのエンジニアの呼び方を借りるなら「まがいものの幸福感をもたらす高らかな鐘の」であり(後略)

同上電子版40ページより

じゃあ、なんでそんなことをするのか。

簡単な話である。できるだけたくさんの時間サービスを利用してくれたほうが、サービスの提供者(たとえばツイッター社)、ひいてはSNSに広告を出稿しているメディアが得をするからだ。

引用ばかりで恐縮だが、おなじ本のなかでフェイスブック社の初代CEO、ショーン・パーカーがとあるイベントのなかでその点について、あまりにぶっちゃけて暴露していることが報告されている。

フェイスブックを先駆とするこういったアプリケーションの開発者の思考プロセスは……要するに”どうしたらユーザーの時間や注意関心を最大限に奪えるか”だ。自分の写真や投稿や何やらに”いいね”がつくと、ユーザーの脳内にわずかながらドーパミンが分泌されるこれが一番手っ取り早い

同上電子版41ページより

この辺の感覚は正直、痛いほどよくわかる。
僕もツイッターをやっていたころは、自分の投稿に表示される「いいね」や「リツイート」の数に一喜一憂していた。

自分の何気ない生活をつぶやくはずだったが、いつの間にかいいね欲しさにあえて尖ったことを発言したことも、ないと言えば嘘になる。このテキストが表示されているnoteだって、「いいね」の機能があるので、本質的にはおなじことだろうと思う。

そうやって、ソーシャル・メディアに踊らされて、あろうことかトレンド欄を騒がせる炎上騒動に首を突っ込んでしまう──あるいは自分が帰属する界隈の揉めごとにいっちょ噛みしてみる。そういう人も少なくないだろう。

だからこそ、ツイッター社は「おすすめ欄」などを設置することで、より多くの炎上へユーザーを巻き込むように仕向けてくる。そんなテック企業の罠にいちユーザーが「ほどほどの距離感」を保つことは難しい。気づけば大小の揉め事の動静を逐一追いかけ、なんなら一席持論をぶつような真似すらしてしまう。ひとつ、ふたつのいいねに承認欲求を満たした気になる。

そんなこんなで半強制的に他者の怒りや悲しみに当てられつづけることで、人びとは病んでしまう。僕は比較的、元気マン寄りの人間ではあるが、それでもSNSを眺めていて消耗を感じることは少なくなかった。しかしそれでも、SNSを運営する企業のミッションは我々を1秒でも長くタイムラインに縛りつけ、その結果として広告を表示することにあるのだから、それに「見ないように努力」などという徒手空拳で対抗することは難しい。

話が膨らみすぎた。なにが言いたいか。ことほどさようにSNS断ちは難しいということだ。その証拠に、やめたいやめたいと言いつつも、けっきょくは僕は今年の頭までだらだらとツイッターをつづけてしまっていた。

しかし、2024年。
年初に発生した震災でのインプレゾンビが跋扈するラクーンシティより酷いツイッターの惨状を見るにつけようやく、「ツイッターを使うデメリット」が「ツイッターを使うメリット」を上回ったと判断するにいたった。いや、とっくにデメリットが上回っていたのだけど、ゾンビで溢れ返る街の様子を見て、とうとう愛想を尽かす決意ができたということだ。

・本題

そういうわけで、ツイッター──僕はもともとほかのSNSをやっていなかったので──ひいてはすべてのSNSをやめた状態での、はじめての水樹奈々ライブであった。

個人的な感覚として、ファンコミュニティ(いわゆる水樹奈々界隈あるいはクラスタ)の動静がいっさい目に入らない──言ってしまえば、知らない他人の意見や感想などのいっさいのステートメントが目に入らないというのは、どれだけ精神安寧に有益かということを痛感した。その感情の内実は後述するが、なんというか、極めて気楽なのである。言い換えれば、ファンコミュニティの重圧がないというか。当然ながら、承認のためのスロットマシンのレバーを引く必要もない。

このあたりの感覚は、なにかのクラスタに所属していない──"オタク"でない人にはつかみづらいかもしれない。ここが今回書きたいことの本丸であるので、もう少し言葉を費やすことにしよう。

たとえば水樹奈々のクラスタを例にとれば、主にツイッター上において、ファンコミュニティとでも言うべき集団が形成されている。ある種の「世論」をそこに見出すことすら可能だろう。その証拠──と言うと、断定が過ぎるかもしれないが、たとえば、水樹奈々運営はツイッター上のファンの声をほぼ確実に蒐集しているように思う。

たとえば、2022年のツアー「LIVE HOME」のある公演において、客席で掲げられたメッセージボード代わりのiPadがクラスタ内で物議をかもし(後ろなやつ見えねえだろ的な意味で)、その後の公演で「iPadを掲げるなど後ろの人を視界をさえぎる行為」を禁止するレギュレーションがを"ツアー途中から"追加されたことなどはその象徴的な一例だろう。

実際、今年のツアー「LIVE JUNGLE」の特設サイト上にある「場内でのお願い・禁止事項」の項目を読むと、なんかじわじわ長くなっている気がしないでもない。ちなみに会場内のアナウンスはもっと長かった。水樹奈々オタク、運営にまったく信用されていない。「どうせお前ら揉めるやろ?」からの大岡裁きというわけだ。

しかしながら、そうやってクラスタ内の自治において侃侃諤諤けんけんがくがくした結果、それが運営により"法令化"されることは、ルール制定のプロセスとして極めて健全で、一概に否定すべき事柄でもないだろう。

と、まあ、長々とファンコミュニティの影響力について書いてきたが、もっとシンプルに言えば、とにかく水樹奈々オタクはどいつもこいつもツイッターをやっている。

たとえばライブ後の飲み会なんかに参加してみると、はじめましての人とあたりまえのようにアカウントを教え合うというイベントが発生する。俺、ツイッターやめちゃったし、今度からmixiのアカウント教えようかな。

そして、そんなクラスタは水樹奈々の活動になんらかの動きがあるたびに活発化する。あるいは僕は行ったことないが、ツイッター上でオフ会の募集なんかもよく目にする。

たとえばライブなんてのはコミュニティがもっとも沸騰するタイミングで、各々が熱い感想をぶつけ合ったりしている。みんなのライブへの想いがだーっとタイムラインに流れてくる。幸せな空間である。

しかし、なかにはライブ前中後に見かけたほかのオタクの行動や、楽曲におけるコール(かけ声みたいなやつ)の入れ方について、疑義を呈している声もよく見かける。平たく言えば、「前の席が○○の曲の間奏で変なコール入れててマジ迷惑。○んでほしい」みたいなやつだ。そういう声がコミュニティのなかを拡散し、炎上とは行かぬまでもぼや騒ぎくらいには発展したりする。

そういうファン同士の意見対立の磁場のことを揶揄して、「学級会」などと呼ぶ向きもある。僕としては学級会大いにけっこう、意見の激しいぶつかり合いがアウフヘーベンして、発展的な共通了解が得られることもあるだろうという立場だ。前述の例のとおり、それが運営側をよくもわるくも動かす事態に発展するかもしれない。運営さん、「規制退場を守らない奴の足元に犬のウンコを置いてもいい」というレギュレーションの追加をお願いします。

火事と喧嘩はオタクの華だ。我々オタクは究極的には提供されるサービスに金を払っている消費者の集まりでしかないにせよ、どんなコミュニティにもなんらかの自治は不可避的に発達するし、そのこと自体はしごくまっとうなことだと思うのだ。

前置きが長くなった。
あるいはもう本筋なのかもしれない。
本論と脇道は互いに参照し合う。
テキストというのは、かようにポリフォニックな空間なのだ。

ファンコミュニティの話を長々としてきた。それらはすべて、この界隈という存在の生態系を、関係のない人たちに少しでも直感してしまうための手続きだ。

そんな水樹奈々界隈であるが、ここ数年、よく見かける"ある声"の存在がある。すわなち、

なんか最近ギスギスしてるよね

というものだ。

具体的に言えば、ライブがあるたびになにがしかの論点で「学級会」が行われている。その常になにがしかファン同士で争っている状況を、「ギスギス」していると感じるのは自然な感覚なのかもしれない。たしかに、ボヤだか焚き火だかキャンプファイヤーだか山火事だか知らぬ種火はよく見かけた気がする。楽しく、安寧にライブに参加したい人にとっては、いい迷惑だろう。

しかし裏を返せば、毎度「学級会」が勃発するということは、辛抱たまらんというほどにライブ会場で不愉快な目に遭った人が少なくともひとりはいるということだ。

たとえ流派は違えど、おなじファンとして、僕はその声を軽視したくないなあ、と思う。
なぜなら、のぼり調子ならまだしも、現にじわじわと人気が下降している──漸近的にファンの数が減っていっている退却戦のコンテンツにおいては、戦線を支えるひとりひとりの熱心なファンの存在がこれまで以上に重要になってくるからだ。これは幼児にもわかる真理だ。救命ボートの特等席を奪い合うことより、沈みゆくタイタニックに残って楽団のメンバーとして演奏をつづけたい。

では、その「ギスギス」の正体はなんなのか。こんだけ引っ張っておいてなんだが、僕にはその実態がいまいちつかめてない。なぜなら、議論好きな性格が災いして(?)、僕は学級会的な争いに積極的に首を突っ込んでいる側だからだ。ぶっちゃけおもしろがっている。しかし、散々語ってきたように、意見の対立があることはそんなにわるいことだとも思っていないのも、また嘘偽りならざる本音だ。

そんな僕ですら、コミュニティの声が見えない・聞こえないことで、だいぶライブそのものに注力できたような感覚がある。
もしかしたら、このテキストを書いている三重2daysにおいて、なんらかの「学級会」がおこわれているのかもしれない。しかし、僕にはそれが見えない。見えないものは"ない"もおなじなのだ。

これはね、これはいいですよ、ほんと。

「ギスギス」に消耗してる人を見かける。ツイッター上でもリアルな友達でも見かける。いくつか実際に目撃したケースだと、「界隈の空気が好きじゃないからファンをやめる」「界隈で炎上したから責任をとってライブには行かない」みたいな、率直にマジかよと言いたくなるような理由でファンを卒業する人すら見かける。当たり前すぎて言いたくないが、犯罪行為でもしないかぎり、ただの客であるオタクにそんな"責任"はない。

僕も10年以上、水樹奈々オタクをやってきて、それなりに同好の士でも呼ぶべき友だちができた。しかし、彼らは「たまたま水樹奈々が好きだった」というきっかけで仲良くなったに過ぎず、普段は推しの話はほとんどしない。

だからこそ、いまだにほとんどの水樹奈々ライブは単独ソロで参加する。そういう意味で、僕にとって水樹奈々界隈はどこまで行っても虚構にすぎない。しかし、そうは思っていても、ひとたびライブ会場に行くと、そこに"界隈"が実体化しているような錯覚を覚える。そんなものはない。ないはず、なのだ。

そこにあるのは個々人の人間関係だけで、"界隈"という正体不明の化け物が見えているならば、それは自分の正気を疑ったほうがいい。何度でも言うが、本来ライブというのは金を払ってチケットを買い、当日現地でライブを観て、帰る。それだけのことなのだ。我々はどこまで行ってもただの消費者だ。ただの客だ。そこには界隈もコミュニティもクラスタも介在する余地など、はなからないのだ。

だから、そこで嫌われようが揉めようがマジでどうでもいいはずなのだ。しかし、人間はときに"ない"ものを"ある"ように思ってしまう。昔の人がただ不注意で川で溺れたことを「河童」のせいにしたように、我々はそこにゴーストを見てしまう。

そういうコミュニティ疲れとでも呼ぶべき現象は、そこここで見かけるようになった。SNSでの繋がりが実際の友人関係に発展することが当たり前になった昨今、そういった教室的磁場が発生しやすくなったのかもしれない。そういう意味で、”界隈”はやはり”ある”のかもしれない。だからこそ、そこに自治が発生する余地もあるのやもしれない。わからない。”ない”のだけど、”ある”のかもしれない。見えるんだけど見えないもの。


いずれにせよ、オタク同士の横のつながりを強化しすぎるのも、考えものだなあ、と思うのだ。

さて。

長くなってきたし、そろそろ結論に入るべきだろう。しかし、もともと確固たる論旨があるわけでもなく、即興的につむいできたテキストなので、上手いこと着地点が見つからない。僕としても、現在進行形で考えつづけているトピックなのでしかたがない──と思いたい。

そういうわけで、ここは我々が界隈の主である水樹奈々さんにご出馬を願おう。迷ったときは聖書をスコラ哲学的に紐解くべきだ。

そうは言っても、水樹奈々は極度のアナログ人間である。ツイッターは水樹奈々公式があるだけで、数年前にようやく個人のインスタを導入して、不慣れに動画や写真を頑張ってあげている。可愛すぎる

しかし、そんな水樹奈々が結果的に、SNSの相互監視的空間の虚構性について指摘する歌詞を残している。「LIVE JUNGLE」ツアーでも披露されている「全力DREAMER」を見てみよう。

見えない誰かを気遣って
疲れてばかり
正解は自分にしかないのに

水樹奈々「全力DREAMER」より

ううむ、味わい深い歌詞である。

ツイッターをやめる前後で、上のようなことを延々と考えていた僕は、三重のライブでこのフレーズを聴いて、はっとさせられたわけだ。

とはいえ、べつに水樹奈々が自分のオタクたちがSNSでくり広げる醜い争いを仲裁するために、上の歌詞を書いたとは思わない。ぶっちゃけたまたまだと思う。

しかしながら、そうした「たまたま」としか言うしかない同時代とのシンクロニシティをなぜか発揮してしまうのが、一流のアーティストの神通力なのだと思う。

いやあ、水樹奈々はいいなあ。

(終わり)


(追記)
ツイッターをやめたので、ここで最近感動したnote記事を紹介しておく。

乱暴にまとめると、「筆者がいかにして水樹奈々ファンになったか」という記事である。太宰治の女学生小説のような文体で書かれたその経緯自体もおもしろいが、もっとも感心したのは、ライブを観ているときの感覚を切り取った以下の部分だ。

自分はライブを「現実を忘れさせてくれる、現実から逃避させてくれるもの」だと思っていました。しかし、水樹奈々のライブには、はっきりとした現実感がありました。自分はライブ中も、夏の憂鬱を忘れることはありませんでした。夏の憂鬱を忘れずに、それでも、ペンライトを振り、コールを叫び、跳ぶことが出来ました

自分は楽しいことをしている時は、意識的に嫌なことを思い出さないようにしてきました。多くの人は、楽しい時間に嫌なことなど思い出さないようですが、自分は意識的にそうしていなければ、どんなに楽しい時間でも、嫌なことが頭の中を侵食するのでした。

そんな自分が、水樹奈々のライブ中は、意識的に嫌なことをシャットアウトしていないこと、する必要が無いことに気がつきました。意識的に嫌なことをシャットアウトせずに何かを楽しめる時間は、物心がついてからは初めてでした。

それは、「楽しい時間だから嫌なことを思い出さない」というわけではなく、「嫌なことを思い出したとしても、楽しくいられる」という不思議な感覚でした。

※太字は引用者による

ここを読んだとき、自分のライブ鑑賞の際の態度をはじめて正確に言語化されたような軽い酩酊感を覚えた。なにか生のエンターテイメントを観賞するときの感覚の表現として、ある種の”正解”が出たように思う。

僕はアリーナでライブを観ることも、劇場で映画を観ることも、ホールで芝居を観ることも好きであるが、そんなとき、油断すると頭のなかに直近の嫌なことや懸念が想起されて、目の前で展開されるできごとに集中できないということがしばしばある。映画で言えば、ワンシーンぶん丸々記憶がないなんてこともざらにある。

しかし、水樹奈々のライブは──あるいは誰かにとって何より大切なほかのコンテンツを観ているときは、「楽しい」が「嫌なことを思い出す」をギリギリ上回る。そういうことがたしかにある。

このテキストを読んだのは、水樹奈々ライブ三重公演2ays目の前であるが、それ以降、公演中に意識がよそにいったとしても、「ああ、俺は集中できていない」と落ち込むことがなくなった。なぜなら、「楽しい」が上回っているから。

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